花に背いて中村文則『何もかも憂鬱な夜に』の書評。刑務官と死刑囚の物語。




2009N45句(前日までの二句を含む)

April 0542009

 小指より開け子が見する桜貝

                           中山フジ江

語は「桜貝」、春です。歳時記によると、「古くは花貝といわれた」とあります。その名を見ればおのずと、昔から人にやさしく見つめられつづけてきたのだということがわかります。身をかがめて拾われて、柔らかな手のひらに乗せられ、美しい美しいと愛でられてきたのでしょう。その思いそのままに、本日の句はひそやかで、小さくて、いとしい感情に包まれています。包んでいるのは子供の手。ぷっくりと、まだ赤ん坊のころの肉を付けたままのようです。「お母さん、いいものを見せてあげる」と、差し出された腕の先はしっかりと握られ、何が出てくるのかと被せる顔の前で、おもむろに小さな指から開かれてゆきます。小指が伸び、薬指が伸びた頃には、すでに貝の半身が色あざやかに目の前に現れ、見れば子供の爪のようにかわいらしい桜貝が出てきています。読む人をどこまでも優しい気持ちに導いてくれる、あたたかな春の句になっています。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 0442009

 流し雛波音に耳慣れてきて

                           荒井八雪

流しの行事は今も行われているが、その時期は、新暦、旧暦の三月三日、春分の日など地方によってさまざまだ。吉野川に雛を流す奈良県五条市の流し雛は、現在四月の第一日曜日ということなので明日。写真を見ると、かわいい着物姿の子供達が、紙雛をのせた竹の舟を手に手に畦道を歩いている。そして、吉野の清流に雛を流して祈っているのだが、その着物の色は、千代紙を思い出させる鮮やかでどこか哀しい日本の赤や水色だ。紙雛はいわゆる形代であり、身の穢れを流し病を封じるといい、雛流しは、静かでやさしい日本古来の行事のひとつといえる。この句は、波音と詠まれているので海の雛流しなのだろう。作者は雛を乗せた舟をずっと見送っている。春の日の散らばる海を見つめて佇むうち、くり返される波音がいつか海の心音のように、自分の体が刻むリズムと重なり合ってゆく。そんな、耳が慣れる、もあるのかもしれない、とふと思った。『蝶ほどの』(2008)所収。(今井肖子)


April 0342009

 暮春おのが解剖体を頭に描くも

                           目迫秩父

号「めさくちちぶ」と読む。春の暮の明るさと暖かさの中で、おのれの解剖される姿を思い描いている。宿痾の結核に苦しみ昭和三十八年に喀血による窒息死で四十六歳で死去。組合活動で首切りにあうなど、常に生活苦とも戦った。こういう句を読むと、今の俳句全体の風景とのあまりの違いに驚かされる。文体は無条件に昔の鋳型をとっかえひっかえし、季語の本意本情を錦の御旗にして類型、類想はおかまいなし。若い俳人たちは、「真実」だの「自己」だのは古いテーマと言い放ったあげくコミックなノリにいくか、若年寄のような通ぶった「俳諧」に行くか。自分の句を棚に上げてそんな愚痴をいうと、ぽんと肩を叩かれて「汗も涙も飢えも労働も病も、もう昔みたいに切実感を失ってテーマにはならないんだよ」そうかなあ、どんな時代にも、ただ一回の生を生きる「私」は普遍的命題。いな、普遍的なものはそれだけしかないのではないか。この句の内容はもとより、上句に字余りを持ってきた文体ひとつにしてもオリジナルな「私」への強烈な意識が働いていることを見逃してはならない。『雪無限』(1956)所収。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます