早実も残ってはいるけれど、こうなったら我が山口の南陽工を応援するぞ。(哲




2009ソスN3ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3132009

 春荒や水車は水を翼とし

                           菅 美緒

書のうえでは春の嵐と同義にされる「春荒(はるあれ)」だが、心情的には「嵐」とひとくくりにされるより、もっと春の持つ爆発的なエネルギーを感じさせる独特な荒々しさを持っているように思う。掲句では、激しい風にあおられながら、水車のこぼす水がまるで白い翼を持つ生きもののようだという。村上春樹の小説『納屋を焼く』(新潮文庫)に「世の中にはいっぱい納屋があって、それらがみんな僕に焼かれるのを待っているような気がする」という印象的な文章があった。そこにはあらゆる種類の暗闇が立ちこめていたが、掲句では水車が能動的に羽ばたくことを選び、大空へ飛ぶチャンスをうかがっているように見える。それは人をやすやすと近づけることを許さない「春荒」という季題が、水車に雄々しい自由と自尊心を与えているのだろう。〈子のごとく母を洗へり春の暮〉〈交みゐて蛙しづかに四つの目〉『洛北』(2009)所収。(土肥あき子)


March 3032009

 よろけては春の真中を行く棒か

                           松林尚志


March 2932009

 同じ顔ならぶ個展や春の雨

                           片山由美子

の句に詠まれている顔は、絵の中の顔ではなく、会場に来ている見学者の顔なのだろうと思います。個展会場の壁に整然と掛けられた絵、それぞれに、ひとつずつの顔が相対しており、その顔がどれも似ているというのです。いえ、同じだと言うのです。むろん、人の顔そのもののつくりは違うものの、雨の中をはるばるこの会場へ来て、扉を開け、絵を観賞するために視線を向けている姿勢と心持は、それまでの時間がどんなに異なっていても、同じところに落ち着いてしまうもののようです。あるいは、描かれた絵の力によって、どの顔も、ほほえましい笑顔や、引き締まったまなざしを持つようにさせられているのかもしれません。個展というのですから、広い敷地の美術館ではなく、銀座の裏通りに面した、こじんまりとした画廊ででもあるのでしょう。窓の外には止むことなく、静かに雨が降り続いています。見れば春の宵を、どの一粒も同じ顔をした雨が並んで落ちています。見るものと見られるものの関係の美しさを、やわらかく詠っています。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)




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