雨上りの明治大学キャンパス。春休みで閑散としているところがよろしい。(哲




2009ソスN3ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 2632009

 琴光喜おしりが勝つと言うて春

                           中谷仁美

のむかし相撲に熱中していた時期がある。毎日毎日中入り前から見ていたのであらかたの力士の名前を覚えていたが、この頃はめっきり見る機会が減り、番付に知らない名前が増えた。覚えているところでは太い腕で豪快に投げを打つ魁皇、朝青龍は相手をにらみ返す流星のような目が印象的だ。琴光喜は作者が贔屓にしている力士。しこを踏む姿、立合いの仕切りの姿に回しをぎゅっと締めこんだお尻がチャームポイントなのだろう。大事な取り組みの勝利を願って作者は正坐でテレビを見守っているのかもしれない。「この一番、勝って!」という熱い思いに画面の中の琴光喜のお尻が「勝つ」と答えているようだ。この勝負「琴光喜寄り切りだろう春の雷」の句のように怒涛の攻めで琴光喜が勝っただろうか。今場所も残り少ないけど、怪我することなく頑張ってほしいものですね。『どすこい』(2008)所収。(三宅やよい)


March 2532009

 全身を春いっぱいにする涙

                           豊原清明

東地方でもようやく桜がほころびはじめた。春はなにも桜とかぎったわけではないけれど、やはり桜が咲くことによって、私たちのからだのなかにも春は機嫌よく広がってゆく。「全身を春いっぱいにする」のは、春の真新しい涙に映っているチューリップであり、辛夷であり、桜であり、青空に浮かぶちぎれ雲かもしれない。それらは春があちらこちらにあふれさせ、こぼした「涙」とも言えるのではないか。「涙」をもってきたところに、作者の清新なポエジーが感じられる。幸せいっぱいの涙、悲しみをこらえきれない涙、理由もなくセンチメンタルになってしまう涙・・・・全身になぜか涙が広がり、春が広がってゆくうれしさ。きれいな季節を奏でているかのような春の涙。春こそいろいろな意味での「涙」があふれる季節、と言っていいかもしれない。その涙は目からあふれるにちがいない。それ以前に全身これ春というふうに涙がいっぱい詰まっている、そのように大胆にとらえているところに、この詩人独自のポエジーの躍動が鮮やかに感じられる。春と涙の関係に鋭く着目したわけである。清明は処女詩集『夜の人工の木』で第一回中原中也賞を受賞した(1996)。「朝日新聞」俳壇では金子兜太選で現在も頻繁に入選していて、私は以前から注目している。清明は「ここ数年、真面目な俳句を『海程』に投句しています」と書いている。「火曜」97号(2009)所載。(八木忠栄)


March 2432009

 朧夜のぽこんと鳴りし流し台

                           金子 敦

の回りのものが立てる音には、住人にそっと寄り添うような優し気なものと、ぞっと孤独を引き立てる音とがある。前者は、階段がきゅーと鳴る場所だったり(暗闇のなかわざわざ踏んで下りたりする)、水道の出だしのキョッという音(あ、準備して待っていたんですがついうっかり眠ってしまって、ちょっと驚いちゃいましたよ、という感じ)などは、思わず「一緒に暮らしているんだね」と微笑みかけたくなる。しかし、掲句の「ぽこん」は後者である。この音に聞き覚えのある方は、インスタント焼きそばの湯切り経験者だと確信する。流し台に熱い湯を捨てるとき、必ずステンレスが「ぽこん」というか「ぼこっ」と音を立てる。それはもう、とてつもなく唐突に孤独を感じさせる音なのである。なるべく音がしないように場所を変えてみたり、少量ずつこぼしてみたりするが、流し台は「どうだ、寂しいだろう」とばかりに必ず鳴る。固く錠をかけていた胸の奥の扉が開き、潤んだ春の夜がするするっと忍び込んでくる。『冬夕焼』(2008)所収。(土肥あき子)




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