中国に毛沢東主義共産党復活の動きあり、と。貧しくとも平等な社会は可能か。(哲




2009ソスN3ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1132009

 春の雪誰かに電話したくなり

                           桂 米朝

球温暖化のせいで、雪国だというのに雪が少なくてスキー場が困ったりしている。春を思わせる暖かい日があるかと思えば、一晩に一挙に30センチ以上も降ったりすることが、近年珍しくない。私の記憶では、東京では冬よりもむしろ三月に雪が降ることが少なくなかった。季節はずれに雪が降ったりすると、なぜかしら親しい友人につい電話して、雪のことにとどまらず、あれこれの近況を語り合ったりしたくなる。電話口で身を縮めながらも、「今ごろになってよう降るやないか。昼席がハネたら雪見酒としゃれようか」とでも話しているのかもしれない。もっとも雪国でないかぎり、昼席がハネる頃には雪はすっかりあがっているかもしれない。雪は口実、お目当ては酒。春の雪は悪くはない。顔をしかめる人は少ないだろう。むしろ人恋しい気持ちにさせ、ご機嫌を伺いたいような気持ちにさせてくれるところがある。米朝は八十八の俳号で、東京やなぎ句会の一員。言うまでもなく、上方落語の第一人者で人間国宝。息子の小米朝が、昨年10月に五代目桂米団治を襲名した。四代目は米朝の師匠だった。米朝が俳句に興味をもったのは小学生の時からで、のち蕪村や一茶を読みふけり、「ホトトギス」や「俳句研究」を読んだという勉強家。「咳一つしても明治の人であり」「少しづつ場所移りゆく猫の恋」などがある。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


March 1032009

 駅の灯の遠く三月十日かな

                           中田尚子

灯に照らされるプラットホームに立ち、ホームに入る電車に乗り込むという行為はごく日常にありながら、駅の灯を思うときには、なぜかいつもはるかかなたに存在するように思う。悪夢には、追いかけられるものと、追いかけても決して近づけないものがあるのだそうだが、遠い灯は後者の代表的なものだろう。昭和20年3月10日、東京大空襲。作者は昭和30年代の生まれであるから、実際の戦争体験はないがしかし、戦争の記憶は、語り継がれることで後世の身に刻まれていく。悪夢を例にあげるまでもないが、掲句の「遠く」は単に距離や過ぎた年月だけをいうものではないだろう。か細くまたたく駅の灯は、さまざまな人々の戦争のおそろしい体験が、時代を超えてそれぞれの胸に灯されたものだ。10万人を超える人々をこの世からぬぐい去った東京大空襲で、堅川に暮らしていた父も、両親と姉二人を亡くした。会うことの叶わなかったわたしの家族であった人たち。うららかな日和であればあるほど、遠い日が切なく、恨めしい。「百鳥俳句選集第2集」(2009)所載。(土肥あき子)


March 0932009

 沈丁花が一株あり日本社会党に与す

                           中塚一碧楼

戦翌年(1946)春の作句だ。沈丁花が一株、庭にある。花は地味だけれど、芳香は強い。この植物におのれを託した気持ちは、地味な国民のひとりとして「小なりといえども」の気概からだろう。未曽有の混乱期、作者に限らず国民の政治にかける期待は大きかった。一碧楼は同時に「小母さん自由党をいふ春のうすい日ざし地に照る」「浅蜊そのほかの貝持参共産党支持のこの友」とも詠んでいる。この年四月に戦後初の総選挙が行われることになっていたので、寄ると触ると選挙の話題が出たことをうかがわせる。前年12月の選挙法改正で20歳以上の男女が投票権を得て、はじめての選挙であった。女性参政権がはじめて認められたこともあり、立候補者はなんと2770人。いかにみんなが熱くなっていたかが推察できるだろう。結果はしかし、鳩山一郎率いる自由党が第一党と保守色が強く、作者の与(くみ)した日本社会党は進歩党についでの第三党に終わった。戦前からの知名度が物を言ったということか。ちなみに女性当選者は39人の多きを数え、そのひとりで後に白亜の恋で話題を呼ぶことになる若干27歳の松谷天光光の所属政党は「餓死防衛同盟」というものであり、当時の厳しい世相を反映している。作者はこの年の末に60歳で永眠。翌年の新憲法下ではじめて行われた選挙で片山哲の日本社会党が第一党になったことは、知る由もなかった。『日本の詩歌・俳句集』(1970・中央公論社)所載。(清水哲男)




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