ハードスケジュールの一ヶ月が過ぎた。緊張持続のおかげか風邪もひかなかった。(哲




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March 0832009

 湯屋まではぬれて行きけり春の雪

                           小西来山

の気持ち、実にそうだなと、思うのです。これから歩いて行く先は、間違いなく全身をあたたかく濡らしてくれる場所なのだから、そこまでの道のりで、多少ぬれてしまってもかまわないわけです。というよりもむしろ、身体を冷やしておいたほうがさらにお湯の気持ちよさは増すに違いなく、まちがっても無粋な傘などをさす気にはならなかったのでしょう。また、手ぬぐいや風呂桶などを手に持った上で、さらに傘を差すことは、歩くのに不自由でもあり、これくらいの雪ならば、体の上に好きに降らせたまま気分よく歩いてゆきたいと思う気持ちもわかります。時間は夜ではなく、まだ日のあるうち、道の両側に広がる風景や、雪を降らせている雲をでも、ゆったりと眺めながら歩いているようです。日ごろの鬱屈はひとまず忘れることにして、頭の中ではすでに服をすべて脱ぎ去り、やわらかな湯気の立ったお湯の表面に、つま先を差し入れているところなのかもしれません。句のはじめから最後まで、なんとも気持ちのよい出来上がりになっています。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


March 0732009

 雛の間の障子半分湖に開け

                           中井富佐女

月三日に東京に雪が降ったのは、二十五年ぶりのことだという。雨が雪に変わった今年の雛の日は、朝から春寒の趣だったが、昼から夕方にかけてきゅっと冷えこみ、暮れてからこれは予報どおり雪かも、とリビングの障子を少し開けたら、ベランダがうっすら白い。思わず、お雛様の方へ振り向いて、ほら雪、雪、と言ったのだった。この句は、湖に向かって雛を飾った障子を半分開けた、と言っているだけだ。でもこの、半分という一語に丁寧な所作が見え、暮らしと共にある湖に、一年に一度会うお雛様に、心を通わせている作者の姿が見えてくる。遠くを見ているようでどこも見ていないような、お雛さまの永遠の微笑みと広々とした湖に、時間はまた流れていながら止まっているようでもある。この湖は琵琶湖。滋賀の堅田に今も続く、浪乃音酒造の八代目中井余花朗・富佐女夫妻の合同句集『浪乃音』(1967)所収。(今井肖子)


March 0632009

 切株があり愚直の斧があり

                           佐藤鬼房

ちのくの土着の想念を背負って屹立する俳人である。「愚直」は愚かなほどまっすぐなこと。愚直が自己投影だとすると「愚」は自己否定だけれど、「直」は肯定。「愚直な私」と書いたら、半分は自分を褒めていることになる。作品で自己肯定をみせられるほど嫌味なことはない。自己否定するのなら、「愚かでずるい私」くらいは踏み込んで言ってもらいたい。だからこの句の愚直を僕は自己投影とはとらない。これは斧のことであり他者のことである。斧が深くまっすぐに切株に刺さっている風景に託して、ただ黙々と木を伐り、田を耕すしかない他者について言っている。こういう「愚直」を作者は認め自らもそうありたいと願っているのである。『名もなき日夜』(1951)所収。(今井 聖)




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