「おくりびと」志望の人が増えているという。いやはや、何と申しましょうか…。(哲




2009ソスN3ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0732009

 雛の間の障子半分湖に開け

                           中井富佐女

月三日に東京に雪が降ったのは、二十五年ぶりのことだという。雨が雪に変わった今年の雛の日は、朝から春寒の趣だったが、昼から夕方にかけてきゅっと冷えこみ、暮れてからこれは予報どおり雪かも、とリビングの障子を少し開けたら、ベランダがうっすら白い。思わず、お雛様の方へ振り向いて、ほら雪、雪、と言ったのだった。この句は、湖に向かって雛を飾った障子を半分開けた、と言っているだけだ。でもこの、半分という一語に丁寧な所作が見え、暮らしと共にある湖に、一年に一度会うお雛様に、心を通わせている作者の姿が見えてくる。遠くを見ているようでどこも見ていないような、お雛さまの永遠の微笑みと広々とした湖に、時間はまた流れていながら止まっているようでもある。この湖は琵琶湖。滋賀の堅田に今も続く、浪乃音酒造の八代目中井余花朗・富佐女夫妻の合同句集『浪乃音』(1967)所収。(今井肖子)


March 0632009

 切株があり愚直の斧があり

                           佐藤鬼房

ちのくの土着の想念を背負って屹立する俳人である。「愚直」は愚かなほどまっすぐなこと。愚直が自己投影だとすると「愚」は自己否定だけれど、「直」は肯定。「愚直な私」と書いたら、半分は自分を褒めていることになる。作品で自己肯定をみせられるほど嫌味なことはない。自己否定するのなら、「愚かでずるい私」くらいは踏み込んで言ってもらいたい。だからこの句の愚直を僕は自己投影とはとらない。これは斧のことであり他者のことである。斧が深くまっすぐに切株に刺さっている風景に託して、ただ黙々と木を伐り、田を耕すしかない他者について言っている。こういう「愚直」を作者は認め自らもそうありたいと願っているのである。『名もなき日夜』(1951)所収。(今井 聖)


March 0532009

 おっぱいの匂いがするよ春の椅子

                           朝倉晴美

児のやり方も年を追って変わってゆく。やれうつぶせ寝がいい、泣いてすぐに抱くのはダメ。おんぶより前抱きがいいだの、育児書はやかましい。粉ミルクだと腹持ちがいいせいか調子がよければ朝まで寝てくれるが、母乳だと飲み足りないのか何度も泣き声に起こされた記憶がある。寝たまま授乳をすると寝込んだときに赤ちゃんを押しつぶしてしまうので、必ず起きて授乳するようにと、本にも書いてあったので赤ちゃんを抱えて半分眠りながら台所の椅子に座った。生暖かいおっぱいの匂いが自分のものか赤子のものかわからなくなるほど朝も夜も授乳に明け暮れる日々がどのくらい続いたことか。よちよち歩きの子供を見るたびに、あんなに大きく育って羨ましいとため息をついたものだ。そんな日々もたちまち過去のものとなり、掲句を見てすっかり忘れていた日々を思い出した。おっぱいの甘酸っぱい匂いに包まれる椅子には春の光が似つかわしい。一人で座る腕にもう赤ん坊はいないけれど、遠く過ぎ去った日々を椅子はいつまでも記憶している。『宇宙の旅』(2008)所収。(三宅やよい)




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