東京地方は久しぶりに一日中「晴れ」の予報。勤め人にはそれだけで嬉しい。(哲




2009ソスN3ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0232009

 花冷の水が繩綯ふ川の中

                           真鍋呉夫

京辺りでは、今年の桜の開花は早いそうだ。とはいえまだ少し先だけれど、早咲きを願ってこの句を紹介する。季語は「花冷(え)」で、桜は咲いたのに、どうかすると冷え込むことがあるが、そのころの季感を言う。桜の樹は川べりに植えられることも多いので、このときの作者はちょっと川端で花見でもと洒落込んだのだろうか。しかし、あいにくの冷え込みだ。襟を掻き合わせるようにして、どこまでも白くぼおっとつづく桜並木を見ているうちに、自然に川の水に目が移った。桜の花はいわば幻想的な景観だが、川の水はいつ見ても現実そのものだから、桜を眺めていたまなざしが、ふと我に返ったのである。むろん大気の冷えが、そうさせたのだ。こういうときの現実は強い。普段なら気にもしない水の流れに、作者の目はおのずから吸い寄せられていった。思わずも凝視しているうちに、どうした加減か、川のある箇所の水が捩れながら流れている。その様子がまるで縄を綯(な)っているように見えたというのである。縄を綯ったことのある人ならば、あのいつ果てるとも知れない単調な作業を思い出して、句景はすぐに了解できるだろう。作者はいつしか桜のことを忘れてしまい、しばし川水の力強い縄綯いの「現実」に見入ってしまうのであった。『月魄』(2009)所載。(清水哲男)


March 0132009

 鳥の巣より高き人の巣留守勝ちに

                           金子兜太

語は「鳥の巣」、春です。命が産み出される場所が、そのまま季節に結びついているようです。作者は、散歩で通りすがった雑木林の中から、春の空を見上げてでもいるのでしょうか。数メートル先の空には、小さな鳥の巣が見えています。そしてその先に視線を伸ばせば、遠くには高層マンションが見えています。鳥の巣と、高層マンション。大きさも堅さも中に住むものも、全く違っているものを、同じものとして見据えたところに、この句のすぐれた視点があります。「人の巣」という言い方は、一見、それほど際立った表現とは思えません。それでも、こうして句の中に置かれてみると、思った以上に新鮮で、目を見開かせるものを持っています。どうしたらこんなふうに、効果的な言い回しが出来るのだろう。あるいは人とは違う見方というものは、どこまでが表現の中で許されてあるのだろう。そんなことをこの句は、考えさせてくれます。句は最後に、人の巣が「留守勝ち」であると、言っています。あんなに高いところに、人のいない空間がぽつんと置き去りにされている。確かに、鳥の巣よりもずっと深い寂しさが、こちらに押し寄せてきます。「俳句」(2009年2月号)所載。(松下育男)


February 2822009

 庭掃除して梅椿実朝忌

                           星野立子

倉三代将軍源実朝、歌人としても名高いことは言うまでもないが、陰暦一月二十七日に、鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)に暗殺されたという。今年は今日がその一月二十七日ということで、この句をと思った次第。梅も椿も、それぞれ春季であり、梅椿、と重ねた言い方を、私はこの句で知ったのだが、季重なりというより、梅も椿も咲いている早春のふわっとした空間を感じる。この句の場合構成を見ると、実朝忌と合わせて三つの季重なり、ということになるのだが、実朝忌の句だ。梅と椿が咲いている庭を掃除しながら、今日もいいお天気、空も春めいてきたなあ、などとちょっと手を止めた時、ああ、そういえば今日は実朝忌だわ、と気づいたのだろうけれど、こうして意味をとろうとするとなんだかつまらなくなる。くいっとつかまれるのだが、うまく説明できない、ということが、立子の句にはよくある。それはきっと、俳句でしか表現できないことを詠んでいる、ということなのだろう。『虚子編新歳時記 増訂版』(1995・三省堂)所載。(今井肖子)




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