森毅が料理中に大やけど。老人はイメージ通りに身体が動かない。他山の石。(哲




2009ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0132009

 鳥の巣より高き人の巣留守勝ちに

                           金子兜太

語は「鳥の巣」、春です。命が産み出される場所が、そのまま季節に結びついているようです。作者は、散歩で通りすがった雑木林の中から、春の空を見上げてでもいるのでしょうか。数メートル先の空には、小さな鳥の巣が見えています。そしてその先に視線を伸ばせば、遠くには高層マンションが見えています。鳥の巣と、高層マンション。大きさも堅さも中に住むものも、全く違っているものを、同じものとして見据えたところに、この句のすぐれた視点があります。「人の巣」という言い方は、一見、それほど際立った表現とは思えません。それでも、こうして句の中に置かれてみると、思った以上に新鮮で、目を見開かせるものを持っています。どうしたらこんなふうに、効果的な言い回しが出来るのだろう。あるいは人とは違う見方というものは、どこまでが表現の中で許されてあるのだろう。そんなことをこの句は、考えさせてくれます。句は最後に、人の巣が「留守勝ち」であると、言っています。あんなに高いところに、人のいない空間がぽつんと置き去りにされている。確かに、鳥の巣よりもずっと深い寂しさが、こちらに押し寄せてきます。「俳句」(2009年2月号)所載。(松下育男)


February 2822009

 庭掃除して梅椿実朝忌

                           星野立子

倉三代将軍源実朝、歌人としても名高いことは言うまでもないが、陰暦一月二十七日に、鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)に暗殺されたという。今年は今日がその一月二十七日ということで、この句をと思った次第。梅も椿も、それぞれ春季であり、梅椿、と重ねた言い方を、私はこの句で知ったのだが、季重なりというより、梅も椿も咲いている早春のふわっとした空間を感じる。この句の場合構成を見ると、実朝忌と合わせて三つの季重なり、ということになるのだが、実朝忌の句だ。梅と椿が咲いている庭を掃除しながら、今日もいいお天気、空も春めいてきたなあ、などとちょっと手を止めた時、ああ、そういえば今日は実朝忌だわ、と気づいたのだろうけれど、こうして意味をとろうとするとなんだかつまらなくなる。くいっとつかまれるのだが、うまく説明できない、ということが、立子の句にはよくある。それはきっと、俳句でしか表現できないことを詠んでいる、ということなのだろう。『虚子編新歳時記 増訂版』(1995・三省堂)所載。(今井肖子)


February 2722009

 虚子の亡き立子の日々や立子の忌

                           今井千鶴子

濱虚子が亡くなったのが1959年4月8日、立子が1984年3月3日。次女であり虚子にことに愛されたといわれる立子にとって虚子没後の四半世紀がどんなものであったのか。作者は虚子の縁戚として立子の主宰誌「玉藻」の編集に従事し、また晩年の虚子の口述筆記に携わるといういわば「ホトトギス」の内情に精通する立場から立子の気持ちに思いを馳せているわけである。そういう鑑賞とは別に興味ある角度をこの句は見せてくれる。虚子をAと置き、立子をBと置くと、この句は「Aの亡きBの日々やBの忌」という構造になる。AとBのところに自分の思いのある二人の人間、あるいは動物などを入れるとA、Bの関係に思いを馳せる「自分」との三者の関わりが暗示される結果になる。文意や意図とは別の次元で、定型詩の新しい文体や構造はこのようにして生まれてきたのだ。『過ぎゆく』(2007)所収。(今井 聖)




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