風邪を「召す」という妙な言葉。また寒くなりました。風邪など召しませんよう。(哲




2009ソスN2ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1722009

 恋猫といふ曲線の自由自在

                           杉山久子

が家の三毛猫は、松の内が明ける頃早々に恋猫となる。近所に野良猫もたくさん住む環境ながら、タイミングがずれているせいか、雄猫がうろつくこともなく、孤独のうちに恋猫期が終わる。そして、二月に入ると近所の猫たちの恋のシーズンが始まるが、この時期にはもう我関せず。ペットだからいいようなものの、女性としてはどうなのよ、と質問したいものである。恋猫の姿というのは、掲句の通り、立っても歩いても寝転んでもどこかしら魅惑の曲線を伴う。とはいえ、猫嫌いの方にとっては、あのくねくねした感じがなによりイヤと言われるのかもしれない。猫好きが多い私の周りで、はっきり猫が嫌いという方の理由を聞くと「抱いたときのあのぐにゃっとした感じ」なんだそうだ。「お菓子が嫌いなのはあの甘いところ」に通じるような、とりつく島のなさに思わず笑ってしまったが、猫が苦手という何人かに聞くと、総じて「分かる分かる」と頷かれる。猫諸君。抱かれるときは少し身を固くしてみてはいかがだろうか。〈雛の間に入りゆく猫の尾のながき〉〈猫の墓猫に乗られてうららけし〉『猫の句も借りたい』(2008)所収。(土肥あき子)


February 1622009

 立つ人に手を貸せば春来たるなり

                           橋本輝久

るに見かねて手を貸したのではない。あるいは、常日ごろからその人の身体が不自由なことを意識していたからでもない。何かの会合でたまたまその人の隣りに居合わせ、さて散会となったときに、いかにも立ちにくそうにしている様子に気がついて、自然にすっと手を添えたということだろう。立ち上がったその人は微笑しつつ会釈をし、作者も「いえ……」と呟いて軽く会釈を返した。それだけのことであり、日常によくあるふるまいであり光景である。お互いに、すぐに忘れてしまうような交感だ。しかし、その交感のほんの一瞬に、二人の間には微妙なぬくもりのような感情が通いあう。この感じは、むろん周囲にいる人にはわからない。その微妙な交感の相をつかまえて、作者はそれを「春」と捉えた。暦の上では「春」であっても、これから出て行く表はまだ寒い。が、たとえ一瞬にせよ、ぬくもった心で見る外界は、確実に「春来たる」と告げているかのようだ。ここで「春」は、その自然的実相を作者のみに大きく開いたのだと言えるだろう。かくして、季語「春」は動かない。『殘心』(2009)所収。(清水哲男)


February 1522009

 春の宵レジに文庫の伏せてあり

                           清水哲男

日は清水さんの誕生日ということで、清水さんの句です。思い出せば昨年の今頃には、清水さんの古希をお祝いして後楽園でボウリング大会をしたのでした。幸いにもわたしは3位に入賞し、記念のメダルをいただきました。今もそのメダルは、大切に会社の引き出しにしまってあります。ところで、この句のポイントは、「春の宵」の一語と、そのあとに描かれている内容との、ちょっとした食い違いにあるのではないのでしょうか。というのも、「春の宵」といえば、思いつくのはロマンチックな思いであったり、センチメンタルな感情であったりするわけです。ところが、そんな当たり前な感じ方を、清水さんの感性は許すはずもなく、そこはそこ、読者を驚かすようなものを、きちんと差し出してくれるのです。その食い違いや驚かすものは、これ見よがしではなくて、あくまでも物静かで、自然な形でわたしたちに与えられるのです。それでいて、ああそうだな、そんなこともあるなという、合点(がてん)のゆく食い違いなのです。レジの上に、不安定な格好で伏せられた文庫本が、まざまざと目に見えるようです。その文庫本を手にする人の思いの揺れさえ、じかに感じられてくるから不思議です。なんとうまくこの世は、表現されてしまったものかと、思うわけです。『打つや太鼓』(2003)所収。(松下育男)




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