漢字クイズ流行。読めても書けても、あんなもん「智」とは何の関係もない。(哲




2009ソスN2ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1222009

 名前からちょっとずらして布団敷く

                           倉本朝世

く布団に小学校のころ使ったノートの細長い空欄を思った。試験用紙もそうだけど、何度あの欄に名前を書き入れたことか。名前はほかでもない私の証。だけど、名前で呼ばれる私と内側に抱える自分とのずれは誰もが感じていることだろう。その名前から少しずらして敷く布団は季語としての布団じゃなくて、毎朝毎晩押入れから出し入れして敷く生活用品としての布団だろう。その布団にくるまれて眠るのは名前で呼ばれる昼間の私をはずれて夢の世界に入ること。「名前」と「布団」違う次元にあるようでどこか近いものを並べて日常に隠された違和感をするする引き出してくるのが川柳の面白さ。「煮えたぎる鍋 方法は二つある」なども、方法という言葉を置くと台所の鍋がこんなにも怖いものになるのかと、言葉の力を感じさせる句である。『なつかしい呪文』(2008)所収。(三宅やよい)


February 1122009

 冬の坂のぼりつくして何もなし

                           木下夕爾

な坂道をくだるとき、前方はよく見えている。けれども、坂道をのぼるときはもちろん前方は遠くまで見えているとはかぎらない。坂のむこうには空だけ、あるいは山だけしか見えていないかもしれない。その坂をのぼりきったところで、冬は何もないかもしれないのだ。いや、枯れ尽くした風景か冬の風物が、忘れ物のようにそこにあったとしても、まるで何もないように感じられるのだろう。春、夏、秋では「何もなし」とはならない。もっとも掲出句の場合は、現実の風景そのものというよりも、心象的な空虚感も詠みこまれているのではあるまいか。冬の寒々とした風景は、場合によってはもはや風景たり得ていないこともある。そこには作者の心の状態が、色濃く影を落としているにちがいない。懸命に坂をのぼってきてようやくのぼりきったのに、達成感よりもむしろ空虚感がぽっかり広がるのみで、作者の心に満たされるものとてない。ここに一つの人生論的教訓みたいなものまで読みとりたいと、私は思わないけれど、何やらそのようなものが感じられないこともない。寒々しい冬にふと感じられた、風景と心のがらんどう「何もなし」を、素直に受けとめておこう。夕爾には「樹には樹の哀しみのありもがり笛」という句もある。『菜の花集』(1994)所収。(八木忠栄)


February 1022009

 たちまちに車内に桜餅匂ふ

                           大島英昭

気に入りの近所の和菓子屋さんでは、立春をもって桜餅が並ぶようになる。桜の季節はまだ先だが、香りから春を思い出し、身体が素直に喜ぶことを実感できる瞬間である。桜の葉のあの独特の芳香は、殺菌効果も伴う「クマリン」という成分だそうだ。クマリンは木に付いているときには発することはなく、落葉となったときから生まれるという。そしてこれは、自樹が落葉する範囲に芽吹きを許さないテリトリー遵守が真の目的だというから驚く。まず花しか咲かないこと、落ちてより香る葉、そして60年ほどの寿命。桜が持つ数々の不思議は、どれも確固たる基準に裏打ちされているように思われる。桜の身内にしか理解できない、唯一の桜となるための美の基準である。謎めいていればいるほど、人間は桜という生きものに惑わされ、魅了されてやまないのだろう。などと満開の桜に思いを馳せつつ、桜餅を二つたいらげたのだった。〈日暮れより春めいてゆく家路かな〉〈桜蕊降るやをさなの砂の城〉『ゐのこづち』(2008)所収。(土肥あき子)




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