打撃の職人・山内一弘氏死去。生きていると、淋しいことに遭遇する機会も増える。(哲




2009ソスN2ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0722009

 陶工の指紋薄れて寒明くる

                           木暮陶句郎

日の清水さんの一言に、暦の上でも何でも「春」は嬉しい、とあったが、立春の一日は、毎年そんな気持ちになる。寒明(かんあけ)と、立春。寒が明けて春が立つ、というわけでほぼ同義だけれど、寒明には、長かった冬ももう終わりだなあ、という心持ちがこもる。俳号の通り陶芸家でもある作者。この句、来る日も来る日も轆轤(ろくろ)を挽いていると、ほんとうに指紋が薄れるのかもしれないが、その表現に象徴される年月を、寒明くる、の感慨が受けとめて、じんわりと春の喜びを感じさせる。掲出句と並んでいる〈轆轤挽く春の指先躍らせて〉のストレートな明るさとは、同じ指先を詠みながら対照的だ。そういえば昨年、生まれて初めて轆轤を挽くという経験をした。もう半年以上経つが、濡れた土がすべってゆく、ざらっとしながらもなめらかな得も言われぬ感触は、はっきりと指先に残っている。思えば指ってよく働くなあ、などと思いつつじっと手を見る。「俳句」(2009年2月号)所載。(今井肖子)


February 0622009

 桜貝拾ふ体のやはらかき

                           中田尚子

れは自分の体。桜貝を拾う人を客観的に見ての感慨だと「やはらかき」の表現は出ない。この人、自分の体のやわらかさに驚いている。体を曲げて桜貝を拾うとき自分の体の柔軟さに気づき「おっ、私ってまだいけるじゃん」と思ったのだ。これは自己愛表現ではない。日頃、自分の体の手入れを何もしていない人が、それにもかかわらず意外に曲がってくれる骨や筋肉に対していつもほったらかしにしていてごめんねというご挨拶。または自分の老いをときに自覚している人のほろ苦い告白。桜貝の存在に必然性はない。体を曲げて拾う何かであればいいので、桜貝でもいい、という程度の存在。それはこの句の短所なのではなくてむしろ長所。季題以外にテーマがきちんとあるということ。『別冊俳句平成秀句選集』(2008)所収。(今井 聖)


February 0522009

 春の海地球に浮きし船の数

                           渡部ひとみ

の海はおだやかでのどか。ひゅーるるると頭上を鳶が飛んでゆくのも嬉しい。寒い北風に封じ込められていた海の中でも生き物たちが動きはじめる。そんな春の海に船の取り合わせは平凡に思えるが、それを「地球」サイズの大きさに広げたことで、暗黒の宇宙に浮かぶ地球そのものもあまたの船を抱え込む船に思えてくる。青く静まる海にどれだけの船が浮かんでいるのか、考えるだけで気の遠くなる思いだが、貨物船、客船、屋形船、ヨットからカヌーまで、それぞれの船に似合いの海の名前、その色を想像してみるのも楽しい。作者は写真家でもあり、CDジャケットの大きさの句集はさまざまな写真に彩られている。掲句には東京タワーを彼方に見下ろした東京の景観が取り合わせてある。こうした構成には、読み手が俳句から広げるイメージを損なわないよう句と写真を組み合わせるセンスが必要なのだろう。ページをめくるたびその妙が楽しめる一冊になっている。『再会』(2008)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます