さっぽろ雪まつりには二度出かけた。写真のほうが奇麗だなという無粋な印象。(哲




2009ソスN2ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0622009

 桜貝拾ふ体のやはらかき

                           中田尚子

れは自分の体。桜貝を拾う人を客観的に見ての感慨だと「やはらかき」の表現は出ない。この人、自分の体のやわらかさに驚いている。体を曲げて桜貝を拾うとき自分の体の柔軟さに気づき「おっ、私ってまだいけるじゃん」と思ったのだ。これは自己愛表現ではない。日頃、自分の体の手入れを何もしていない人が、それにもかかわらず意外に曲がってくれる骨や筋肉に対していつもほったらかしにしていてごめんねというご挨拶。または自分の老いをときに自覚している人のほろ苦い告白。桜貝の存在に必然性はない。体を曲げて拾う何かであればいいので、桜貝でもいい、という程度の存在。それはこの句の短所なのではなくてむしろ長所。季題以外にテーマがきちんとあるということ。『別冊俳句平成秀句選集』(2008)所収。(今井 聖)


February 0522009

 春の海地球に浮きし船の数

                           渡部ひとみ

の海はおだやかでのどか。ひゅーるるると頭上を鳶が飛んでゆくのも嬉しい。寒い北風に封じ込められていた海の中でも生き物たちが動きはじめる。そんな春の海に船の取り合わせは平凡に思えるが、それを「地球」サイズの大きさに広げたことで、暗黒の宇宙に浮かぶ地球そのものもあまたの船を抱え込む船に思えてくる。青く静まる海にどれだけの船が浮かんでいるのか、考えるだけで気の遠くなる思いだが、貨物船、客船、屋形船、ヨットからカヌーまで、それぞれの船に似合いの海の名前、その色を想像してみるのも楽しい。作者は写真家でもあり、CDジャケットの大きさの句集はさまざまな写真に彩られている。掲句には東京タワーを彼方に見下ろした東京の景観が取り合わせてある。こうした構成には、読み手が俳句から広げるイメージを損なわないよう句と写真を組み合わせるセンスが必要なのだろう。ページをめくるたびその妙が楽しめる一冊になっている。『再会』(2008)所収。(三宅やよい)


February 0422009

 スナックに煮凝のあるママの過去

                           小沢昭一

、昔の家はみな寒かった。ストーブのない時代、せいぜい炬燵はあっても、炬燵で部屋全体が温まるわけではない。身をすくめるようにして炬燵にもぐりこんでいた。まして火の気のない時の台所の寒さは、一段と冷え冷えとしていた。だから昨夜の煮魚の汁は、朝には鍋のなかで自然と煮凝になっていることが多かった。掲出句の煮凝は料理として作られた煮凝ではなく、ママさんが昨夜のうちに煮ておいた魚の煮汁でできた煮凝であろう。お店で愛想を振りまいているママさんの過去について、男性客たちはひそかに妄想をたくましくしているはずだが、知りようもない。知らないなりに、しみじみと煮凝をつついているほうが身のためです。まあ、女性としての変遷がいろいろとあったのでしょう。決して輝かしい一品料理ではなく、さりげない(突き出しの)煮凝に過去の変遷が重なって感じられる。ママさんの過去がそこに一緒に凝固しているようでもある。「煮凝」と「ママの過去」の取り合わせ、昭一ならではの観察に感服。小ぢんまりとしてアットホームなスナックなのだろう。この場合、「女将(おかみ)」ではなく、「ママ」という言葉のしゃれた響きがせつない。一九六九年一月の第一回やなぎ句会の席題句で、天位に入賞した傑作。その席で、ほかに「煮凝や病む身の妻の指図にて」(永井啓夫)「煮こごりの身だけよけてるアメリカ人」(柳家小三治)などの高点句もあった。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)




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