キャリーカートをだらだら引きずって歩く人が増えてきた。止めてくだされ。(哲




2009年句(前日までの二句を含む)

February 0322009

 かごめかごめだんだん春の近くなる

                           横井 遥

だまだ寒さ本番とはいえ、どこかで春の大きなかたまりがうずくまっているのではないか、と予感させる日和もある。夏も冬もどっと駆け足で迫りくる感じがあるが、春だけは目をつぶっている間にゆっくりゆっくり移動している感触がある。掲句はそのあたりも含んで、「かごめかごめ」という遊びがとてもよく表しているように思う。輪のなかの鬼が目を覆う手を外したとき、またぐるぐる回っている子どもたちが立ち止まったとき、春はさっきよりずっと近くにその身を寄せているような気がする。「後ろの正面」という不可思議な言葉と、かならず近寄りつつある春のしかしその掴みきれない実態とが、具合よく手をつないでいる。明日は立春。「後ろの正面だぁれ」と振り返れば、不意打ちをされた春の笑顔が見られるのではないだろうか。〈あたたかや歩幅で計る舟の丈〉〈大騒ぎして毒茸といふことに〉『男坐り』(2008)所収。(土肥あき子)


February 0222009

 罵声もろとも鉄剪り冬は意地で越す

                           安藤しげる

ょうど半世紀前の作。当時の作者は二十代半ばで、日本鋼管鶴見製鉄所で働いていた。まだま敗戦の傷跡が残り、この国は貧しかった。労働条件も劣悪であったに違いない。加えて、作者は労組の中央闘争委員であったから、当然のように会社からは睨まれていただろう。上司の理不尽な「罵声」も飛んでくる。しかし、そこでかっとなって反抗したらお終いだ。湧き上がる憤怒の思いを、鉄を剪る作業に向けるしかなかった。こうなってくると、働きつづけるためにはもはや「意地」しかないのである。叩きつけるような句から見えてくるのは、当時の作者の姿ばかりではなく、作者の仲間たちや多くの工場労働者の生き方である。その頃の私は、父が勤めていた花火工場の寮にいたので、いかに工場での仕事が辛いかは、少しくらいはわかっていた。逃げ場など、ない。喧嘩して止めれば、路頭に迷うだけなのである。その意味では、現代と状況が似ている。いまは派遣社員の扱いがクローズアップされているけれど、どんな時代にも、資本のあがきは弱者に襲いかかるものなのだ。ただ現在、人々の表現に、往時に言われたような社会性俳句の片鱗すら見えてこないのが、とても不気味である。いつしか個々人の憤怒の思いは、社会的に拡散されるような仕組みが作られてしまったということだろう。いまこそ叩きつけるような表現があってしかるべきなのに、みんな黙っている。職場俳句すら、ほとんど詠まれない。みんながみんな利口なのか、馬鹿なのか。掲句を含む句集を読んでいて、そんなことを考えさせられた。『胸に東風』(2005)所収。(清水哲男)


February 0122009

 一月二月丸暗記しています

                           阿部完市

いもので2009年も1月がすでに終わってしまい、あたりまえのことながら、切れ目もなしに2月がやってきました。ちょうどそんな時期に、1月2月が並んだこのような句に出会いました。とはいうものの、この句は決してあたりまえに出来上がっているわけではありません。いったい、「丸暗記」が1月2月とどう繋がっているのでしょうか。受験期の最後の追い込み勉強としての丸暗記がここに置かれていると、考えられないわけではありません。しかし、そのような詮索はなんの意味もないようです。特に、「しています」という言い方が、なんともとぼけた味を醸しています。この句が目に留まったのは、生真面目に書かれた多くの句の中にあって、身をずらすような書かれ方をしていたからなのです。句の内容よりも、創作の姿勢そのものが作品の魅力になっているという点では、作者の特異な才能を認めざるをえません。型を熟知しているものにしか、型を破ることは出来ないからです。思い出せば昨年の暮れ、明治大学の講堂で行われた世界の詩人が集まった朗読会で、この作者の朗読をじかに聴いたのでした。読まれてゆく句はどれも、意味の関節を次々にはずしてゆくような内容でした。朗読とは、もっともかけ離れた位置にある作品を、滔々と読み続ける姿に、ひたすら感心して聴いていたのでした。「俳句」(2009年1月号)所載。(松下育男)




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