ジョン・アプダイク死去、76歳。彼の感性には同感するところが多かった。(哲




2009ソスN1ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2912009

 探梅や遠き昔の汽車にのり

                           山口誓子

ろそろ暖かい地方では梅が開き始める時期だろうか。浅ましくも「開花情報」をネットで検索してから出かけるのでは「探梅」の心には遠く、かと言ってこの寒さにあてなく野山をさすらう気持ちにはなかなかなれない。昭和49年に鉄道が無煙化して以来、汽車は観光のための見世物になってしまった。汽車が生活の交通手段にあり、会話の中でも汽車と電車を使い分けていたのは私たちの世代が最後かもしれない。「遠き昔の汽車」とは、むかし乗ったのと同じ型式の汽車にたまたま乗り合わせたという意味だろうか。そればかりでなく鳴響く汽笛に心をはずませた幼い頃の気分が甘酸っぱく甦ってきたのかもしれない。探梅は冬の寒さ厳しき折に先駆けて咲く梅を見つけにゆく旅。「遠き」が時間と距離の双方にかかり郷愁と同時に春を探しに行く未知の明るさを句に宿している。硬質な知的構成がとかく強調される誓子だが、この句にはみずみずしい叙情が感じられる。『凍港』(1932)所収。(三宅やよい)


January 2812009

 座布団を猫に取らるゝ日向哉

                           谷崎潤一郎

の日当りのいい縁側あたりで、日向ぼこをしている。その折のちょっとしたスケッチ。手洗いにでも立ったのかもしれない。戻ってみると、ご主人さまがすわっていた座布団の上に、猫がやってきて心地良さそうにまあるくなっている、という図である。猫は上目づかいでのうのうとして、尻尾をぱたりぱたりさせているばかり。人の気も知らぬげに、図々しくも動く気配は微塵もない。お日さまとご主人さまとが温めてくれた座布団は、寒い日に猫にとっても心地よいことこの上もあるまい。猫を無碍に追いたてるわけにもいかず、読みさしの新聞か雑誌を持って、ご主人さましばし困惑す――といった光景がじつにほほえましい。文豪谷崎も飼い猫の前では形無しである。ご主人さまを夏目漱石で想定してみても愉快である。心やさしい文豪たち。「日向ぼこ」は「日向ぼこり」の略とされる。「日向ぼっこ」とも言う。古くは「日向ぶくり」「日向ぼこう」とも言われたという。「ぼこ」や「ぼこり」どころか、あくせく働かなければならない人にとっては、のんびりとした日向での時間など思いもよらない。日向ぼこの句にはやはり幸せそうな姿のものが多い。「うとうとと生死の外や日向ぼこ」(鬼城)「日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ」(虚子)。「死」という言葉が詠みこまれていても、日向ゆえ少しも暗くはない。潤一郎の俳句は少ないが、他に「提燈にさはりて消ゆる春の雪」という繊細な句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 2712009

 パー出した人の集まり冬日向

                           久保エミ

ループをおおまかにふたつに分けるときに採用するグーパーじゃんけん。各地にさまざまな種類があるようだが、だいたいは「グッとパッ」や「グーパーじゃん」など、安易な掛け声を伴い、グーとパーだけが使われる。あっちとこっちに分かれた組が、たまたま日向と日陰に移動した。何の根拠もないけれど、二択を選ぶときそれぞれの形から性格を反映するものだとすると、パーを出す人は明朗活発、グーを出す人は努力家というように思えてこないだろうか。そしておそらくパーを出す明るい人たちがぞろぞろと日向を陣取り、きゃっきゃと声をあげている様子が掲句から伝わってくる。輪郭のぼんやりした冬の日差しのなかで、思いがけず分割されたグループの明暗が、しかし全てに通じているようでなんだか可笑しい。そして、こういう句を出すひとはやっぱりパーを出す人なのだろうなぁ、などと深く納得するのである。わたしはといえば、最初にチョキを出す癖があるらしく、グーパーじゃんけんでも必ずチョキを出してしまい、「あーあ、もう一回」と仕切り直しをされるのだった。「船団第77号」所載。(土肥あき子)




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