杉山正樹氏死去。寺山修司との関係は有名だが「文芸」では私の上司だった。(哲




2009ソスN1ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2312009

 着ぶくれてこの世の瑣事も夕焼す

                           櫻井博道

しくかかわっていることが、ふと瑣事に思えてくることはよくある。人間、糊口をしのがねばならぬのは言わずもがなだけれども、それにかかわらないことにもどれほど意を砕いて日々を送っていることか。「瑣事」ということへの発想は一般的だが、病臥の歳月を重ねた作者が平成三年、六十歳で世を去る前の感慨であることを知ると、「着ぶくれて」に現在只今の「生」の実感が込められ、「夕焼」にこの世への賛歌やエールが贈られているように思う。「こんなつまらないことにかかずらっている」という否定的な自覚ではなくて、「この世の瑣事」に没頭できる時間と存在への肯定である。『季語別櫻井博道全句集』(2009)所収。(今井 聖)


January 2212009

 雪靴をもてセザンヌの前に立つ

                           田川飛旅子

雪の報はあったが、私の住む地域ではまだ雪を目にしていない。寒は早く明けてほしいけど、雪を見ずに冬が終わってしまうのは寂しい。掲句は都会では珍しく雪の降り積もった日のひとコマだろう。ぎしぎし雪を踏みしめてきた靴で作者はセザンヌの絵の前に立っている。先日ブリジストン美術館にある自画像を見たときこの句を思い出した。絵にはところどころ白いキャンパス地がそのまま残されていた。それは塗り残しというより、絵を引き立てるタッチそのものなのだろう。水彩や墨で描く日本画では余白の部分が色や光の役回りを担う。しかし油絵で空間演出としてキャンパス地をそのまま使った人はセザンヌ以前にいなかったのではないか。掲句の「雪靴」は多分登山靴のようにずっしりと重い靴だろう。セザンヌの絵のタッチと雪靴のところどころに残る雪が響き合う。生々しく実感に訴えてくる表現は飛旅子の得意とするところだが、この句にも彼のその特色がよく生かされているように思う。『現代俳句全集』第六巻(1959)所収。(三宅やよい)


January 2112009

 雪竹のばさとおきたる日向かな

                           中 勘助

きたる、は「起きたる」。竹は冬なお青い葉をつけているが、ある量の雪が降ると、その重さに耐えきれず、枝に雪をのせたまま撓い弓なりになって、先端のほうの枝葉が雪に埋もれて凍りついてしまう。陽が高くなって暖気になると、竹は溶けだした雪をはね飛ばしてビーンと起きあがることがある。雪竹が時折「ばさ」と音立てて起きあがったのち、竹林にはいっそうの静寂が広がる。勘助はその瞬間を「ばさとおきたる」ととらえた。私にも実際にこんな経験がある。――子どもの頃、雪がかなり積もると裏山にあるわが家の竹林へ出かける。何本もの竹が雪をのせて弓なりになっている。耐えきれずにすでに折れている小竹もある。子ども心にも可哀相だから、片っ端から竹の先端を埋めた雪を除けてやる。すると竹は生き返ったように、まさに「ばさ」と雪をあたりに散らし、身震いするようにビーンと起きあがる。それがうれしくておもしろくて、心をワクワクさせながら次々に竹を起こしてあるいた。親に言いつけられたわけではなく、たまたま雪で弓なりになっている竹を目にしてからは、雪が積もると裏山へ出かけて行った。起きあがる竹の喜びの声が聞こえるようだった。起きあがった竹の青々とした樹皮を、溶けた雪が雫になって伝わり落ちる。そうして初夏に生え出るタケノコには格別な味わいを感じた。――今は昔のものがたり。勘助は太平洋戦争で疎開した頃から俳句を作りはじめ、多くの俳句を残している。「ひとり碁や笹に粉雪のつもる日に」という一句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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