インフルエンザAソ連型にはタミフルが通じない。奴らはどんどん強くなる。(哲




2009ソスN1ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1712009

 冬満月枯野の色をして上がる

                           菊田一平

週の金曜日、東京に初雪という予報。結局少しみぞれが落ちただけだった。少しの雪でも東京はあれこれ混乱する。一日外出していたのでほっとしたような、やや残念で物足りないような気分のまま夜に。すっかり雨もあがった空に、十四日の月がくっきりとあり、雫のようなその月を見ながら、掲出句を思い出していた。枯野は荒漠としているけれど、日が当たると、突き抜けたようなからりとした明るさを持つ。凩に洗われた凍て月のしんとした光には、枯野本来のイメージも重ね合わせることができるが、どちらかといえばぱっと目に入る明るさが脳裏に浮かんだのではないか、それも瞬時に。〈城山に城がぽつんと雪の果〉〈煉瓦より寒き首出し煉瓦積む〉など、目の前にあるさまざまな景色を、ぐっとつかんで詠むこの作者なら、枯野の色、という表現にも、凝った理屈は無いに違いない、と思いつつ、細りゆく月を見上げた一週間だった。『百物語』(2007)所収。(今井肖子)


January 1612009

 東山三十六峰懐手

                           西野文代

文字の句である。句の表記について漢字にするか、ひらがなにするかはときどき迷うところ。例えば、桜と書くか、さくらと書くか。(もちろん櫻と書く選択もあろうが)ひらがなにするとやわらかい感じになる。あるいはさくらのはなびらの質感が出ると思われる方も居るかも知れない。一方で、桜と書くと一字であるために視覚的に締って見える。さくらは拡散。桜は凝固である。俳句は散文や散文的な短歌に対し凝固の詩であるとみることもできる。一個の塊りのような爆弾のような。この名詞をどうしてひらがなにしたのですかと尋ねると、あまり漢字が多くて一句がごつごつするのでと言われる作者もいる。僕なら凝固、凝集の効果の方をとる。この句、だんだん俯瞰してゆくと一行がやがて一個の点にみえてくるだろう。俳句表現が一個の●になるような表記。俳句性の極致。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所収。(今井 聖)


January 1512009

 女正月眉間に鳥の影落つる

                           飯島晴子

らく今日の日を「成人の日」として馴染んでいたが、それも昔のこと、ハッピーマンデーの導入で「成人の日」は第2月曜日と相成り、休日でない15日は未だに居心地が悪い。もっとむかしは小正月を女正月と呼び祝っていたようだが、私にとっては死語に近い。歳時記を読むと「十四日の夜や女の年取りと呼んで、男が女の食事を全部作ることもあり、また十五日の昼夜に女だけ酒盛りをする地方もある」と書いてある。(平井照敏編「新歳時記」より)要するに正月に忙しかった女が家族や男の世話をせずに、大手を振って出かけられる日。というわけだ。掲句をみると、眉間に落ちる鳥の影は眉をひそめた女の顔も連想させる。家事を置いて出かけることにどこか後ろ暗さが伴うのだろうか。今はわざわざ旦那の許可を得なくとも奥方達はさっさと何処へでも出かけてゆく。昭和30年生まれの私にしてこの馴染みのなさであるから、女と男の性差にもとづいた季語などはますます遠くなることだろう。作者にとって思い入れのある季語なのか、いくつか作例があるが、いずれもどこか翳りを宿しているように思う。「大根葉の青さゆゆしき女正月」「石鹸の荒き日影や女正月」「俳句研究別冊」『飯島晴子読本』(2001)所収。(三宅やよい)




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