三鷹図書館に自動貸出機と自動返却機が設置された。まるでATMだね。(哲




2009ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1012009

 かまくらに莨火ひとつ息づけり

                           横山房子

まくらは、元来小正月(旧正月十五日)に行われたもの。現在は二月十五、十六日に秋田県横手市で行われる行事として名高い。もとは「鳥追(とりおい)」に由来し、かまくらの名も、鳥追の唄の歌詞から来ているともいわれるが、だんだん雪室が主となり、雪室自体のことを、かまくらと呼ぶようになったようだ。この句は、そんなかまくらの中にぽっと見える、莨(たばこ)の火を詠んでいる。吸うと赤く燃え、口から離すと小さくなる莨の火。小さく鼓動するその火に感じられるのは、子供達のかまくら、という童話の世界でも、幻想的な美しさでもなく、人の息づかい、存在感だ。青白い雪明りの中、かまくらそのものにも生命があるように感じられたのだろう。あれこれ調べていると、出前かまくら、から、かまくらの作り方、まで。出前かまくらは、今日、十日から3日間、横浜八景島シーパラダイスで、とある。いろいろ考えるものだなあ、と。「新日本大歳時記 新年」(2000・講談社)所載。(今井肖子)


January 0912009

 陸沈み寒の漣ただ一度

                           齋藤愼爾

には(くが)のルビあり。陸という表現からは、満潮によって一時的に隠れた大地というより、「蝶墜ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男」のような太古への思いや天変地異の未来予言を思うのが作者の意図のような気がする。人類の歴史が始まる何万年も前、あるいは人類などというものがとうの昔に死に絶えた頃、陸地が火山噴火か何かの鳴動でぐいと海中に沈み、そのあと細やかな波が一度来たきりという風景。埴谷雄高のエッセーの中に、人類が死に絶えたあとの映画館の映写機が風のせいでカラカラと回り出し、誰もいない客席に向かって画像が映し出されるという場面があった。時間というもの、生ということについて考えさせられるシーンである。しかし、僕は、いったんそういう無限の時への思いを解したあとで、もう一度、日常的な潮の干満の映像に戻りたい。どんなに遥かな思いも、目に見える日常の細部から発しているという順序を踏むことが、俳句の特性だと思うからである。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所収。(今井 聖)


January 0812009

 蓋のない冬空底のないバケツ

                           渡辺白泉

月からしばらく東京では穏やかな晴天が続いた。雲ひとつなくはりつめた空はたたけばキーンと音がしそうだ。人も車も少ない正月は空気も澄んでいて山の稜線がくっきり間近に感じられた。冬空と言ってもどんよりとした雪雲で覆われがちな日本海側の空と太平洋岸の空では様相が違う。掲句の空は冷たく澄み切った青空だろうが、こんな逆説的な表現で冬空の青さを感じさせるのは白泉独特のもの。たたみかけるように続く「底のないバケツ」は「冬空」とのアナロジーを働かせてはいるが、単なる比喩ではない。蓋と底の対比を効かせ、「ない」「ない」のリフレインも調子がいいが「冬空」の後に深い切れがある。見上げた空から身近に転じられた視線の先に「底のないバケツ」が無造作に転がっている。虚から実へ、とめどなく広がる冬青空を見上げたあとのがらんと寂しい作者の心持ちが錆びて底の抜けたボロバケツになって足元に転がっている。『渡邊白泉全句集』(1984)所収。(三宅やよい)




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