元日午前0時過ぎにTFM系ラジオで拙作が流れます。TVに飽きた方はどうぞ。(哲




2008ソスN12ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 31122008

 ただひとり風の音聞く大晦日

                           渥美 清

晦日とぞなりにけり。寅さん・・・・じゃなかった、渥美清の句でこの一年をしめくくりたい。渥美清がいくつかの句会に熱心に参加して、俳句を残していたことはよく知られている。彼は「芝居も暮らしも贅肉がない人」と言われた。残された俳句にも、もちろん贅肉は感じられない。人を笑わせ、人を喜ばせておいて、自分はひっそりとただひとり静かに風の音に耳をかたむけている、そんな図である。まだ売れなかった昔をふと回想しているのかもしれないが、この人は映画「男はつらいよ」で売れっ子になってからも、そのような心境であったものと思われる。しゃしゃり出ることはなかった。俳号は風天(フーテン)。掲出句は亡くなる二年足らず前の「たまご句会」で作った。彼の大晦日の句には「テレビ消しひとりだった大みそか」という、これまた淋しげな句もある。風天さんの代表句と言われているのは「お遍路が一列に行く虹の中」である。どこやら、「男はつらいよ」の一カットであるかのようでもある。『カラー版新日本大歳時記』春の巻に、虚子や多佳子らが詠んだお遍路の句と一緒に収められている。ところで、「男はつらいよ」シリーズは第48作「寅次郎紅の花」が最後になったけれども、山田洋次監督は第49作目に「寅次郎花へんろ」を撮る予定だったという。森英介著『風天 渥美清のうた』には、著者が苦労して集めた風天さんの二二〇句が収められている。さまざまな大晦日の過ごし方があろうけれど、今日は大晦日の風天句をしばし心に響かせてみたくなった。『風天 渥美清のうた』(2008)所載。(八木忠栄)


December 30122008

 さしあたり箱へ戻しぬ新巻鮭

                           池田澄子

日、実家の母と「蜜柑とレンコンを送る」「いらない」でひと悶着があった。結局「蜜柑はいるけどレンコンはいらない」で折り合いが付いたが、だいたい実家からの荷物は問答無用で唐突に送られてくる。もらう側としては文句を言っては申し訳ない、と思いつつ、その頭数を想定していない量に途方に暮れることも多い。掲句の新巻鮭も、あらかじめ承知している届け物では決してないはずだ。サザエさんの時代には、お歳暮の花形として堂々と迎えられていたようだが、今やあまり目にすることのないしろものである。大きな箱を前にして、途方に暮れたまま荷を開き、あたらめてその巨大な全身をしかと目にしたのちの行為は、呆然と「とりあえず見なかったことにする」現実逃避派と、腕まくりして「利用法、収納法などあれこれ考える」実直派とが大きく分かれることだろう。前者ももちろん、一瞬ののち「どうせなんとかしなくちゃいけないのに」と思い直すのだが、掲句の「さしあたり」がまことに浮遊する虚脱感を言い当てているのだと、現実逃避派であるわたしは深く共感するのである。『たましいの話』(2005)所収。(土肥あき子)


December 29122008

 五徳なるものが揃ひて村滅ぶ

                           福田 基

五徳
得(ごとく)はもう茶の道具くらいにしか使われない。昔はどこの家にもあって、その上に薬缶や鉄瓶を置いていたものだ。五徳というくらいだから、なにやらありがたい道具のように思えるが、なんのことはない。大昔のそれは輪を上にして使っており、「竈子(くどこ)」と呼ばれた。それが安土桃山期の茶道の発達とともに、それまでとは逆に爪を上にして使われるようになった。だから「くどこ」を逆にして「ごとく」と呼んだのだという。したがって「五徳」は当て字。仁・義・礼・智・信の五徳などとは、何の関係もないのである。句ではしかし、実際の道具としての五徳と観念的な五徳との両義がかけてある。村中、どの家にも五徳がある。すなわち、五つの徳目が全て揃っている。なのに、村は滅びつつある。それはすなわち、全てを備えるには至難の徳目が容易に揃ったことで、もはや村には求め極めるものが消失してしまい、逆に自壊の方向に向かっているということなのだ。何であっても、極まればあとは崩れるしかない。なんとも皮肉たっぷりの句だけれど、過疎地をこのように捉えた句はめずらしく、作者の哀感もよく伝わってくる。福田基は昭和八年生まれ、林田紀音夫直門。あとがきに「われ老いたり、心身とも老いたり」とあるのが、私などには身につまされる。『回帰回想』(2008)所収。(清水哲男)




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