今日中に原稿がうまく仕上がれば、年の内はフリーに。頑張るっきゃない。(哲




2008ソスN12ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 21122008

 まつ白いセーターを着て逢ひにゆく

                           伊藤政美

が、個人的な思い出をまざまざと呼び覚ますことがあります。句に描かれた情景そのままではないにしても、どこかで結びついてしまうことが、時折あります。この句がわたしに思い出させたのは、若いころに恋人が着ていた白いコートでした。まだ決まった仲ではなかったけれども、それでもお互いがお互いを選ぼうとしていた頃に、有楽町そごうの前で待ち合わせたことがありました。緊張して待っていると、白いコートを着たその人が、むこうから歩いてきます。それまでに、その服を着ているのを見たことがなかったために、わたしはひどく驚くとともに、白という色に包まれた姿に、決定的に惹かれてしまいました。むろん、服の色が人生を決めたわけではありませんが、思いの速度をはやめたことは、間違いがありません。この句で詠まれているのは、コートよりもずっと身近にある「セーター」です。ただ、わざわざ「まつ白い」と宣言しているところや、「逢ふ」という文字にこめられているものを考えますと、状況はかなり似ているようです。それからわたしにもずいぶん月日が経ち、<共有のセーターに夫若返る>(中井陽子)や、<セーターにもぐり出られぬかもしれぬ>(池田澄子)(増俳2000年2月2日参照)という句を、わが身にあてて考えるような年齢に、いつのまにかなってしまいました。『角川 俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


December 20122008

 駅の鏡明るし冬の旅うつす

                           桂 信子

の鏡にうつっているのは、一面の雪景色なのだろうか。いずれにしてもよく晴れている。そんな風景を背にして、着ぶくれて、頬がちょっと赤くて、白い息を吐きながらも、どこかわくわくしている旅人の顔。非日常の風景の中の自分を、現実の自分が見つめている。冬の旅という言葉を、ありきたりな旅情と結びつけるのではなく、冬の旅うつす、としたことがひとつの発見。出典から見て、昭和三十年より前に作られた句である。こんなさりげない句にも、この作者の自由な詩心が感じられる。さほど大きくはないこの駅で降り立った作者は、ずっと握りしめていた旅の証である切符を駅員に渡して、見知らぬ街へ歩き出したことだろう。なんだか懐かしい、小さくて少し硬めの切符だ。〈それぞれの切符の数字冬銀河〉(坂石佳音)切符に刻まれた数字の数だけ旅人がいて、それぞれの夜空を仰ぐ。『図説俳句大歳時記 冬』(1965・角川書店)所載。(今井肖子)


December 19122008

 卵落した妻睨れば妻われを視る

                           野宮猛夫

には「み」のルビあり。貧しさの中で、とげとげしくなる夫と妻。卵を落した妻をとがめる視線を夫が送れば、妻はあんたこそなによと夫を鋭く見返す。「オイ、もったいないじゃないか」「そんなこと、あんた、わたしに言えるの?」無言のうちに交わされる二種類の視線、「みる」が夫婦の関係、生活を浮き彫りにする。卵の貴重さも時代を映す。貧しさがテーマの句は「社会性俳句」の時代にはデモやストの句と並んでひとつの典型だった。しかし、それらの多くは貧しい庶民の「正しさ」「美しさ」を強調したため、政治宣伝のポスターのような図柄になった。ヘルメットを被りハンマーをもった青年が「団結」と叫んでいるようなどこかの国のポスターと同じである。「社会性俳句」は個別の内面に入ることを為し得なかったために「流行」に終わる。人間の、自己の心理を自己否定のようにえぐりだすこんな句は俳句の可能性を確実に拡げている。こんな切迫した瞬間の感覚に季節感の入り込む余地はない。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)




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