某有名メーカーよりデジカメの投げ売りメール。どこもかしこも守りの経営。(哲




2008ソスN12ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 15122008

 皆伐の淵に泡古る年のくれ

                           竹中 宏

慣れない言葉だが、漢字を眺めているうちに、おおよその見当はつくはずだ。「皆伐(かいばつ)」とは、森林などの樹木を全部または大部分伐採することを言う。反対に、適量を抜き切りするのが「択伐(たくばつ)」である。したがって、この「淵」は川の淵ではなく、奥深い山の湖沼のそれだろう。私は、つげ義春の漫画にでも出てきそうな沼を想像してしまった。もともとは鬱蒼たる樹木に取り囲まれていた沼だったのが、いまでは痛々しくもその淵までをも赤裸に姿をさらしている。周囲にはかつて盛んに元気よく水分を吸い上げてくれていた樹木の影もない。生気を失った沼はひどく淀んでいて、淵には泡がぶつぶつと浮いたまんまだ。それらは古びて茶褐色に変色し、沼の淀みをますます露(あらわ)にしているのである。まさにそんな感じの「年のくれ」だと、作者は喩的に述べているのだと思う。とりわけて今年の暮は、嫌でもそんな印象が濃い。淵にこびりついているような古びた泡は年が明けても消えることがないように、今の世の中の淀みも汚い泡も露なままに、そう簡単には消えてくれる可能性はないのである。まったく、なんという歳末であろうか。俳誌「翔臨」(第63号・2008年11月)所載。(清水哲男)


December 14122008

 スケートの紐むすぶ間もはやりつゝ

                           山口誓子

ころときめくものが、まだそれほどになかった時代。パソコンも、携帯電話も、ファミコンも存在しなかったわたしの中学生時代は、遊びの種類も限られていました。せいぜいボウリングや、クラスの仲間で行ったアイススケートは、それだけに特別な思い出として、よく覚えています。あるとき、クラスの男女20数人でスケート場に行って、無断で担任の先生の名を責任者として申し込み、団体割引で入ったことがありました。のちに先生に、そのことをこっぴどく叱られたことを、40年経った今でも思い出します。天井の高いスケート場は、場内に入ったとたんに、別の世界に迷いこんでしまったかのように明るく、多くの人の熱気に満ちていました。貧しい生活の、とくにこれといって華やかなことのない日常にとっては、かけがえのない晴れやかな体験でした。めったに履くことのないスケート靴は、不慣れなために、なかなかうまく紐が結べません。友は一人二人と先に靴をはき、細いエッジにふらつきながらも、すでに氷へ向かって歩いてゆきます。自分もはやくそうしたいというあせった思いの向く先は、自分の未来そのものだったのかもしれません。『合本俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


December 13122008

 冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ

                           川崎展宏

、言われて、フユ、と云ってみる。ほんとうに口笛を吹くように口が少し尖って、何度も繰り返すと、ヒュウ、と音もする。ハル、ナツ、アキ、とついでに声に出してみると、いずれも二音がはっきりとしていて、くり返してもただただ続くだけだ。ヒュウ、は口笛と同時に、風の音も連想させる。北風はピープー吹くけれど、ヒュウ、は隙間風や、落ち葉を舞い上がらせる一陣の風を思わせる。云う、の方が、言う、より、口ごもるニュアンスらしい。はっきり意味を伝えようとしているわけではなく、ふとつぶやいている感じ。少し悴んだ両手をこすり合わせながら、フユ、とぽつりと言葉にした時、それはため息のように小さい白い息となって、かちんかちんの空気を一瞬見せて消えてしまうだろう。ほらね、という作者の微笑んだ顔が見えるようであたたかい。『俳句歳時記 第四版・冬』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)




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