東京ヴェルディ柱谷監督が退任。彼に限らなぬが、もっと長い目で見てやれよ。(哲




2008ソスN12ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 09122008

 勇魚くる土佐湾晴れてきたりけり

                           濱田順子

魚(いさな)とは鯨の古称。土佐湾といえば「♪おらんくの池にゃ、潮吹くさかなが泳ぎより(よさこい節)」と歌われるように鯨はとても親しい存在。11月頃、子を生むためにオホーツク海から日本海を通って南下し、3月頃子鯨とともに北上すると思われていた鯨だが、最近の調査では一生を土佐湾で過ごす個体もあるらしい。昔から「一頭捕えれば七郷の賑わい」と言われていたように鯨捕りはもちろん、鯨が回遊する鰹や鰯の大群を追っているため、鯨は鰯や鰹の大漁のシンボルとして漁師にも喜ばれていたという。その白波を立てた大きな姿を認めたときの歓喜は、時間を超えて引き続き現在も身体に組み込まれているように思う。掲句の下五「晴れてきたりけり」では、この湾を風土に持つ作者の誇らしさが海原を晴々と照らしているようだ。今年の春、「そりゃもうしょっちゅう見えちゅう」と聞いていた桂浜に行く機会を得て、鯨との出会いを楽しみにしていたが、残念ながら叶わなかった。勇ましい魚が語源という勇魚の悠々と泳ぐ姿をいつか見てみたい。〈夜噺に投網しつらふ音のして〉〈一駅は白でうづもり遍路笠〉『若菜籠』(2008)所収。(土肥あき子)


December 08122008

 人込みに又逢ふ人や十二月

                           植田 航

年を迎えるための買い物客でごったがえしている「人込み」だろう。歳末の人込みは、普段のそれとはだいぶ違う感じがする。物理的には変わらないにしても、普段のそれが人々の目的意識がばらばらであるのに比して、年末のそれはおおかたが年用意のためとわかっているからだ。見知らぬ他人にも、なんとなく連帯感のような感情すら覚えてしまう。この「又逢ふ人」は見知らぬ人であっても構わないけれど、むしろ顔見知りのほうが面白い。そんなに親しくはないが、道で会えば会釈をかわすくらいの関係である。だから最前、人込みですれ違ったときにも、お互いにすぐに気がついて、軽く頭をさげあったばかりなのだ。が、作者が買い物に手間取ってうろうろしているうちに、またその人に出会ってしまった。先方も、たぶんうろうろと同じところを歩き回っていたのだろう。こういうときは、なまじ顔看取りであるだけに、バツが悪い。もう一度会釈をするわけにもいかないので、半分は口の中で「やあ」などと言いながら苦笑ともなんとも言い難い表情をつくるしかないのである。いかにも「十二月」ならではの人情の機微を良くとらえた佳句である。『半日の旅』(2008)所収。(清水哲男)


December 07122008

 入れものがない両手で受ける

                           尾崎放哉

由律俳句といっても、その表れ方は作品によってさまざまです。ですから読み手も作品ごとに、受け止め方を変えなければなりません。今日の句に限っていうなら、この短い作品には、もともと具体的なものや人、あるいは季語があったのに、なんらかの理由で取り払われてしまったのではないかと、感じさせるものがあります。読者としては、とうぜん失われたものがなにかということに思いを馳せることになります。作者はいったい何を受け取ろうとしていたのか。あるいはどんな姿勢をとっていたのか。手の形はどうしていたのか。しばらく考えをめぐらせたあとで、そんな詮索が意味のないことであると知るのです。結局、作者が詠みたかったのは、失われた「入れもの」自体であったと気づくのです。何ものも媒介するものがなく、この世をじかに受け止めていることの心細さ、といってしまっては解釈が単純すぎるでしょうか。五七五という熱い「入れもの」を手放した作者の思いを、両手でじかに受け止めさせられているのは、ほかならぬ読者なのかもしれません。『底のぬけた柄杓』(1964・新潮社)所載。(松下育男)




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