また吉祥寺から馴染の店が消える。かつては詩歌の棚が充実していた店だった。(哲




2008ソスN11ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 30112008

 欲しきもの買ひて淋しき十二月

                           野見山ひふみ

聞に折り込まれたチラシに興味がなくなったら、欝(うつ)の前兆だと、かつて聞いたことがあります。特にスーパーの安売りのチラシに目を凝らしているうちは、生きることに貪欲な証拠であり、サラダ油の値段を比較することが、大げさに言うなら、生きることの勢いにつながっているのかもしれません。本日の句に詠まれている「欲しきもの」とは、しかし、もうすこし高価なものなのでしょうか。長年欲しいと思い続けていたものを、決意して買ったあとの、ふっと力の抜けた感覚が、見事に詠まれています。その店を通るたびに、いつかは買おうと思っていたのです。幾度も迷ったあげく、なにかのきっかけがあって、手に入れてはみたものの、心はなぜか満足感に満たされることがありません。むしろ、買いたいと思うものがなくなったことの淋しさのほうが、強く感じられるのです。12月といえば、クリスマスプレゼントや年末の買い物などがあり、また、多くの会社ではボーナスの支給される時期でもあり、「買いて淋しき」という言葉が、素直に結びつきます。街はクリスマスのイルミネーションで明るすぎるほどに輝き、そのまぶしさがいっそう、個人の影を色濃くしているようです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 29112008

 近々と山のまなざし冬ごもり

                           手塚美佐

日「水と俳句」という宇多喜代子氏の講演を拝聴する機会があったのだが、その中で氏は、「祖母はいつも、山は水のかたまりだ、と言っていた」と話された。不動の山に息づいている水の鼓動。雪に覆われていても、すっかり枯れ山となっていても、冬の山は、ただ眠っているわけではないのだと、あらためて気づかされた。掲出句の作者は、冬日のあたる縁側にいるのだろうか。山そのものが間近にあるわけではなく、じっと見ているうちに、山と共に暮らしているということを、山の存在を感じた、というのだろう。まなざし、の語に、命の源としての山を敬う心持ちが感じられる。この句は、『筆墨 俳句歳時記 冬・新年』(2002・村上護編著)より。この歳時記には、多くの作者自筆の色紙や短冊が掲載されている。掲出句の色紙は、中央に、山のまなざし、が高く置かれて語りかけてくる。作者の個性が強調され興味深い。(今井肖子)


November 28112008

 さも貞淑さうに両手に胼出来ぬ

                           岡本 眸

は「ひび」。出来ぬは「出来ない」ではなくて「出来た」。完了の意。「胼ありぬ」なら他人の手とも取れるから皮肉が強く風刺的になるが、「出来ぬ」は自分の手の感じが強い。自分の手なら、これは自嘲の句である。両手に胼なんか作って、さも貞淑そうな「私」だこと。自省、含羞の吐露である。「足袋つぐやノラともならず教師妻」は杉田久女。貞淑が抑圧的な現実そのものであった久女の句に対し、この句では貞淑は絵に描いた餅のような「架空」に過ぎない。貞淑でない「私」は、はなっから自明の理なのだ。含羞や自己否定を感じさせる句は最近少ない。花鳥や神社仏閣に名を借りた大いなる自己肯定がまかり通る。含羞とは楚々と着物の裾を気にする仕種ではない。仮面の中に潜むほんとうの自分を引きずり出し、さらけ出すことだ。『季別季語辞典』(2002)所収。(今井 聖)




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