世界各地で民衆の不満が爆発暴発。対岸の火事ではないことを肝に銘じておこう。(哲




2008ソスN11ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 28112008

 さも貞淑さうに両手に胼出来ぬ

                           岡本 眸

は「ひび」。出来ぬは「出来ない」ではなくて「出来た」。完了の意。「胼ありぬ」なら他人の手とも取れるから皮肉が強く風刺的になるが、「出来ぬ」は自分の手の感じが強い。自分の手なら、これは自嘲の句である。両手に胼なんか作って、さも貞淑そうな「私」だこと。自省、含羞の吐露である。「足袋つぐやノラともならず教師妻」は杉田久女。貞淑が抑圧的な現実そのものであった久女の句に対し、この句では貞淑は絵に描いた餅のような「架空」に過ぎない。貞淑でない「私」は、はなっから自明の理なのだ。含羞や自己否定を感じさせる句は最近少ない。花鳥や神社仏閣に名を借りた大いなる自己肯定がまかり通る。含羞とは楚々と着物の裾を気にする仕種ではない。仮面の中に潜むほんとうの自分を引きずり出し、さらけ出すことだ。『季別季語辞典』(2002)所収。(今井 聖)


November 27112008

 言ひかへてみてもぱつちに違ひなし

                           平石和美

月だったか、この欄で阪神の選手のインタビューに出てきた「必死のパッチ」という言葉について話題になっていた。そのことについて大阪の友人と話したが、さして深い意味はなく冬下着のパッチとの語呂合わせであるまいか、という結論に落ち着いた。「ぱつち」という言葉にはパチパチたたく音がその響きに感じられて何となく威勢がいい。ロングパンツ、スパッツ「ぱつち」を現代風に言い換える言葉はいくらでもあるだろうが、股引であることに変わりはない。おじいさんのラクダの股引とブランドもののロングパンツの違いはどこにもない。句の通り気取ってみてもぱっちはぱっちなのだ。このあたり関西弁のあっけらかんとした物言いに関西出身の私などは「ほんと、そうやねぇ」と相槌を打ちたくなる。キャミソールやタンクトップで過ごしていた娘たちも「ばばシャツ貸して」と、お願いに来るこのごろの寒さ、颯爽と街をゆく若者たちがいつ頃から「ぱつち」をお召になるのか、興味は尽きない。『桜炭』(2004)所収。(三宅やよい)


November 26112008

 木の葉降り止まず透明人間にも

                           望月昶孝

格的な冬の訪れである。木の葉があっけなく降るがごとくに盛んに散っている。地上に降る。つまり地上に住むわれら人間に降りかかってくる。それどころか、じつは私たちのすぐ傍らにいるかもしれない透明人間にも、降りかかって止まない。透明人間ゆえに、木の葉は何の支障もなく降りかかっているにちがいない。ものみな透けるような時季に、懐かしい響きをもつ透明人間をもち出したところに、この俳句のおもしろさと緊張感が立ちあがってきた。透明人間の存在そのものが、それとなく感じられる冬の訪れの象徴のように思われる。いや、この季節、人々は着ぶくれているけれども、それこそ透け透けの透明人間になってしまっている、と作者はとらえているのかもしれない。葉をなくしてゆく樹木も、次第に透き通ってゆくように感じられる。「木の葉降り止まず」で想起されるのは、加藤楸邨の名句「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ」である。作者には、おそらく楸邨の句も意識のなかにあったと思われる。両句は「透明人間」と「いそぐないそぐなよ」がそれぞれのポイントになっている。昶孝には「地虫出づ兵馬俑を引き連れて」の句もある。昶孝は詩人で、詩人たちの「ハイハット句会」のメンバー。俳号は暢孝。「長帽子」70号(2008)所載。(八木忠栄)




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