ふだんテレビを見ないので、たまたま見ると砂地に水がしみいるごとく。(哲




2008ソスN11ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 18112008

 ミッキーの風船まるい耳ふたつ

                           今井千鶴子

日ミッキーマウス80歳の誕生日。ミッキーマウス俳句を探したため、季節外れはご容赦ください。ディズニーランドで販売しているキャラクターの形の風船は、うっかり勢いで買ってしまって、帰りの電車で後悔するもののひとつである。園内を一歩出れば、徐々に日常を取り戻すのと比例するように、手にした風船にも微妙な違和感を覚え始める。かぶりモノなどと違って鞄にしまうこともできず、「夢の国」のなかのものを連れ出してはいけない、という教訓めいた気分にさせられる。他に〈年玉の袋のミッキーマウスかな 嶺治雄〉もあり、すっかり日本に定着している傘寿のミッキー翁であるが、手元にある『別冊太陽子どもの昭和史(昭和十年〜二十年)』を見ると、昭和9年から11年にかけてミッキーマウスそっくりの赤い半ズボンを履いたミッキーラッシュがあったようだ。アメリカ直輸入のミッキーマウスもすでに天然色のトーキー映画で登場し、各地で子どもたちが映画館へ押しかけていたというが、彼らが大事に繰り返し読んでいた漫画の世界では、著作権から離れた和製ミッキーがミニー嬢ともりそば食べたり、日本刀振り回して山犬退治をしたりしていたのだ。昨年中国のニセモノキャラクタ−がニュースになっていたが、どちらのミッキーもなんだかとっても生き生きして見え、愛すべきキャラクターのアジアでの生い立ちを垣間見た思いがしたのだった。『過ぎゆく』(2008)所収。(土肥あき子)


November 17112008

 葱買ひにゆくだけのことペダル踏む

                           フレザー文枝

りたてて上手な句ではないし、ましてや凄い句でもない。でも私が着目したのは、ほとんど習慣になっている自分の行為を客観視してみたところだ。葱であろうが大根や人参であろうが、それを買いに行くのに自転車を使う。そういうことは多くの人が日常的にやっていることだし、何の変哲もないことではあるのだけれど、作者はペダルを漕ぎながら、多分ふと自分はいま、何のために自転車に乗って急いでいるのだろうかと思ってしまった。たかが葱二三本を買うために、一生懸命ペダルを踏んでいる自分をあらためて意識してみて、なんだか可笑しいような不思議なような気分になっているのである。人はふつう、自分の行為をいちいち見張るようにして生きているわけではない。とくに習慣や癖などについては、無自覚であるのが当たり前だろう。しかしこの句のように、その無自覚な部分に自覚の光を当ててみると、なかなかに面白い発見やポエジーが潜んでいないとも限らない。案外、揚句の視線は句作りの盲点かもしれないと思ったのだ。作者は故人。片仮名の姓は、夫君がアメリカ人だったことによる。句集は娘さんが「ママ、あなたの句集ですよ」と纏めたものである。『バラ百本』(私家版・2008)所載。(清水哲男)


November 16112008

 短日や一駅で窓暗くなり

                           波多野惇子

語は短日で、冬です。つり革につかまりながら、窓の外を見るともなく見ていたのでしょうか。前の駅で停車していたときには、夕暮れの駅舎の形や、遠くの山並みがはっきりと見えていたのに、つぎの駅についたときにはもう、とっぷりと暮れており、駅の灯りもまぶしげに点灯しています。むろん、駅と駅の間にはそれほどの距離があったわけではなく、だからこそ、日の暮れの早さに驚きもしているわけです。そういえば、わたしの働くオフィスには、前面に空を映した大きなガラス窓があり、最近は窓の外が、午後もすこし深まると、にわかに暗くなります。まさに「いきなり」という感じがするのです。冬の「時」は徐々に流れるのではなく、性急に奪い去られるものなのかもしれません。「一駅」という語は、その後ろに、駅と駅の間に流れ去って行く風景をそのまま想像させてくれる、うつくしい語です。句が横の向きへ走りさっていってしまうような、名残惜しさを感じます。うしなうことのさみしさを、読むことのできる季節になりました。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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