布団を干そうと思うが、どうも週末になると曇天。とかく世の中ままならぬ。(哲




2008ソスN11ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 16112008

 短日や一駅で窓暗くなり

                           波多野惇子

語は短日で、冬です。つり革につかまりながら、窓の外を見るともなく見ていたのでしょうか。前の駅で停車していたときには、夕暮れの駅舎の形や、遠くの山並みがはっきりと見えていたのに、つぎの駅についたときにはもう、とっぷりと暮れており、駅の灯りもまぶしげに点灯しています。むろん、駅と駅の間にはそれほどの距離があったわけではなく、だからこそ、日の暮れの早さに驚きもしているわけです。そういえば、わたしの働くオフィスには、前面に空を映した大きなガラス窓があり、最近は窓の外が、午後もすこし深まると、にわかに暗くなります。まさに「いきなり」という感じがするのです。冬の「時」は徐々に流れるのではなく、性急に奪い去られるものなのかもしれません。「一駅」という語は、その後ろに、駅と駅の間に流れ去って行く風景をそのまま想像させてくれる、うつくしい語です。句が横の向きへ走りさっていってしまうような、名残惜しさを感じます。うしなうことのさみしさを、読むことのできる季節になりました。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 15112008

 鷹去りていよいよ鴨の小春かな

                           坊城俊樹

本伝統俳句協会が作っているカレンダーがあるのだが、我が家ではこれをトイレにかけている。協会員の入選句やインターネット句会の方の作品の他、虚子他の色紙や短冊がカラー印刷されているのをトイレに、というのも気が引けるが、毎日つぶさにゆっくり読めるので私には最適なのだ。掲出句は、十一月のページに載っていて、十月分をぺりっと破いた瞬間、短冊の文字が目に飛び込んできた。小春か、いい言葉だな、と思ってあらためて読むと、鷹、鴨、と合わせて季題が三つ。いずれも弱い季題ではないのにもかかわらず、うまく助け合って、きらきらとした小春の句となっている。景は鴨の池だろう、もしこれが、鴨に焦点を当てて、鷹去りていよいよ鴨の日和かな、などとしてしまうと、鷹と鴨が対立しておもしろみがなくなってしまう。あえて、小春かな、と、大きくつかんだことで、三つの季題が助け合い、まことに小春という一句になった。なるほど、と毎日拝見している。(今井肖子)


November 14112008

 尾へ抜けて寒鯉の身をはしる力

                           加藤楸邨

邨の東京文理科大学国文科時代の恩師能勢朝次が昭和三十年に逝去。氏は、楸邨のライフワークとなった芭蕉研究の師であり「寒雷」創刊号にも芭蕉論を寄稿している。前書きに「能勢朝次先生永逝 三句」とあるうちの一句。この句だけを見たら、追悼の句と思う読者がどれほどいようか。およそ追悼句というものは、渡り鳥だの露だの落花だののはかないイメージを持つ花鳥風月に故人への思いを託して詠うというのが古来より今日までの定番になっているからだ。しかし考えてみれば故人と、故人の死を悲しむ者とのかけがえのない一対一の関係と思いを定番の象徴を用いて納得しうるものか。黒い太い寒鯉の胴をぐいとちからが抜けていく。大いなるエネルギーの塊りが今鯉を離れたのだ。こういう時はこう詠むべきだとの因習、慣習を排して、一から詩形の広さを測り、そのときその瞬間の自分の実感を打ちつける。楸邨の俳句に対する考え方の原点がここにも見られる。『まぼろしの鹿』(1967)所収。(今井 聖)




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