高齢者犯罪急増。万引きが多い。金がないのではなく使いたくないのだ。わかる。(哲




2008ソスN11ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 10112008

 寺寒し肉片のごと時計垂れ

                           今井 勲

もほとんど帰ってしまった通夜の席ではなかろうか。冬の寺はだいたいが寒いところだが、夜が更けてくるにつれ、しんしんと冷え込んでくる。私にも経験があって、火の気の無い冬の寺で夜明かしするには、とりあえずアルコールでも補給しないことには辛抱しきれないのであった。線香の煙を絶やさないように気配りすることくらいしかやることもなく、所在なくあたりを見回していた作者の目にとまったのは、いささか大きめな掛け時計であった。何もかもが動きを止めているようなしんとした堂内で、唯一動いている時計。それが作者には、肉片のように生々しく思えたのだろう。ここで私などは、どうしてもダリの描いた柔らかい時計、溶ける時計を思い出してしまうが、作者にも無意識にせよ、ダリの絵の情景と交叉するところがあったに相違ない。寺の調度類は総じて固く見えるから、ひとり動いている時計がそれだけ柔らかく見えたとしても不思議ではないと思う。もう少し突っ込んで考えてみれば、死者の棺を前にして、故人との思い出深い時間が直線的な時系列的にではなく、だらりと垂れた時計のように行きつ戻りつ歪んで思えてきたということなのかもしれない。いずれにしても、読後しばらくは、それこそ「肉片のごと」生々しく心に引っかかって離れない句ではある。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)


November 09112008

 生きるの大好き冬のはじめが春に似て

                           池田澄子

人の入沢康夫がむかし、「表現の脱臼」という言葉を使っていました。思いのつながりが、普通とは違うほうへ持っていかれることを、意味しているのだと思います。もともと創作とはそのような要素を持ったものです。それでも脱臼の度合いが、特に気にかかる表現者がいます。わたしにとって俳句の世界では、池田澄子なのです。読んでいるとたびたび、「読み」の常識をはずされるのです。それもここちよくはずされるのです。「生きるの大好き」と、いきなり始める人なんて、ほかにはいません。特に「大好き」の「大」が、なかなか言えません。もちろん内容に反対する余地はなく、妙に幸せな気分になるから不思議です。生死(いきしに)について、どのように伝えようかと、古今の作家が思い悩んでいるときに、この作者はあっけらかんと、直接的なひとことで済ましてしまいます。では、なんでも直接的に対象に向かえばよいのかというと、それほどに単純なものではなく、ものを作るとは、なんと謎に満ちていることかと思うわけです。ともあれ、読者としては気持ちよく関節をはずされていれば、それでよいのかもしれません。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 08112008

 二の酉の風の匂ひと思ひけり

                           佐藤若菜

年一の酉は、朝のテレビのニュースにもなる、今年は十一月五日。二の酉が十七日、三の酉まであって二十九日、そして一の酉と二の酉の間に立冬。風がかおるといえば、緑の頃のすがすがしさをいう薫風だが、この句は二の酉の頃の風、冬を実感し始める風だ。冬の匂いというと、子供の頃使っていた、ブルーフレームという石油ストーブの匂いを思い出す。今はストーブは使っていないが、少し前まで近所にあったラーメン屋の前を通ると、真夏でもなぜか灯油の匂いがして、炎天下汗をふきながら、そのたびにふと冬を思い出した。匂いの記憶というのも人それぞれだろうなと思いながら句集を読んでいたら〈三月の森の匂ひをまとひ来し〉。二の酉の風の匂ひ、三月の森の匂ひ。その具体的な叙し方が、匂いの記憶を呼び起こし、読み手の中に季感をもたらしてゆく。『鳥のくる日』(2001)所収。(今井肖子)




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