前橋行き。鈴木志郎康さんの萩原朔太郎賞授賞式です。もう寒いだろうな。(哲




2008ソスN11ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 01112008

 卓拭いて夜を切り上げるそぞろ寒

                           岡本 眸

年の秋の印象は、月が美しかったことと、昨年に比べて秋が長い、ということ。そして、日中はいつまでも蒸すなあ、と思っているうちに、朝晩ぐっと冷えてきた。やや寒、うそ寒、そぞろ寒など、秋の冷えの微妙な表現。秋冷、冷やか、を過ぎて、どれも同じ程度の寒さというが、語感と心情で使い分けるようだ。うそ寒の、うそ、は、薄(うす)、が転じたものだが、語感からなのか、なんだか落ち着かない心情がうかがえ、そぞろ寒、は、漫ろ寒、であり、なんとなく寒い感じ。この、なんとなく、が、曖昧なようで妙な実感をともなう。秋の夜、いつの間にか虫も鳴かなくなったね、などと言いながらつい晩酌も長くなる。さてそろそろ、と、食器を片付け食卓をすみずみまで拭く。きびきびとしたその手の動き、拭き終わった時にもれる小さいため息。今日から十一月、と思っただけで、やけに冬が近づいた気のする今夜あたり、こんなそぞろ寒を実感しそうだ。『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


October 31102008

 黄菊白菊自前の呼吸すぐあへぐ

                           石田波郷

郷最後の句集の作品。結核による呼吸困難の重篤な状態の中で詠まれた。いわゆる境涯俳句や療養俳句と呼ばれた作品は自分の置かれた状態を凝視する点を意義としている。従来の「伝統俳句」は花鳥風月をテーマとして詠じ、それら「自然」の背後に微小なる存在として、あるいはそれらによって象徴されるべき受身の立場として、「我(われ)」が在った。いな、我はほとんど無かったと言った方がよい。この句、呼吸の苦しさは切実な我を反映しているが、そこに斡旋された季語においては、映像的、感覚的な計らいがなされている。黄菊白菊という音のリズムに乗った上句は、リズムとともに、黄と白のちらちらする点滅を思わせる。危機に瀕している己れの生に向かって波郷は黄と白の信号を点滅してみせる演出をする。波郷の凄さである。『酒中花以後』(1970)所収。(今井 聖)


October 30102008

 朝寒の膝に日当る電車かな

                           柴田宵曲

中にあたる昼の日差しは汗ばむようだが、朝は厚めの上着がほしいぐらい冷え込むようになってきた。おそらくは通勤の膝に当たっている日差しをぼんやりと眺めているのだろう。昔の電車だから今のように暖房が完備されているわけはなく、木の床板や車窓の隙間から入ってくる風に身体をすくめながら膝にあたるかすかなぬくみに朝の寒さを実感している。そんな情景が想像される。作者の『古句を観る』(岩波文庫)はこのコーナーでもよく紹介される本だが、何度読んでも飽きない。元禄時代の無名俳人の句を取り上げているのだが、的をはずさない句の解釈もさることながら、簡潔で味わい深い文章の魅力に引きつけられる。広い教養に裏打ちされた作者の人柄が文章に反映しているのだろう。この本はしばらく絶版だったが、多くの読者の希望で復刊されたと聞く。宵曲は一時期ホトトギスに所属、丸ビルの事務所にも通っていたが、のちには寒川鼠骨を助けて『子規全集』を編集。その交遊のうちに俳句を続けたという。『虚子編季寄せ』(三省堂・1941)所載。(三宅やよい)




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