October 302008
朝寒の膝に日当る電車かな
柴田宵曲
背中にあたる昼の日差しは汗ばむようだが、朝は厚めの上着がほしいぐらい冷え込むようになってきた。おそらくは通勤の膝に当たっている日差しをぼんやりと眺めているのだろう。昔の電車だから今のように暖房が完備されているわけはなく、木の床板や車窓の隙間から入ってくる風に身体をすくめながら膝にあたるかすかなぬくみに朝の寒さを実感している。そんな情景が想像される。作者の『古句を観る』(岩波文庫)はこのコーナーでもよく紹介される本だが、何度読んでも飽きない。元禄時代の無名俳人の句を取り上げているのだが、的をはずさない句の解釈もさることながら、簡潔で味わい深い文章の魅力に引きつけられる。広い教養に裏打ちされた作者の人柄が文章に反映しているのだろう。この本はしばらく絶版だったが、多くの読者の希望で復刊されたと聞く。宵曲は一時期ホトトギスに所属、丸ビルの事務所にも通っていたが、のちには寒川鼠骨を助けて『子規全集』を編集。その交遊のうちに俳句を続けたという。『虚子編季寄せ』(三省堂・1941)所載。(三宅やよい)
October 292008
月見酒天動説のまことかな
小林直司
歳時記に月見酒あり、月見団子あり。なるほど、お月見にも辛党と甘党があるわけだ。月見酒とか雪見酒という風流の極致と言いたい言葉は古くからあるけれど、今日、風流をたしなむ俳人はともかくとして、なかなか実行する機会は少ないのではないか。ままよ、さっぱりお月さまが見えない薄闇のなかで、ワイワイ飲んでいる。そんな風情を私は一概に否定はしたくない。コペルニクスが、太陽が宇宙の中心だと唱えた地動説以前の宇宙構造説が天動説である。宇宙科学の「まこと」はともかく、地動説よりも天動説のほうがポエティックではないか? 宇宙原理に基づいた、まっとうな地動説ばかりがまかり通るようでは、世の中はつまらないことおびただしい。「天動説のまこと」とは大胆にずばり言い切ったものである。下五が憎らしいほどに功を奏している。地動説危うしとなって、月見酒の席は気宇壮大にとほうもなく盛り上がっているにちがいない。つい最近、私が参加した句会で「鬼胡桃何がなんでも天動説」に出くわして、思わず高点を投じてしまった。地動説を信じて疑わない精神こそ厄介なのではあるまいか。「朝日新聞」2008年9月29日の「朝日俳壇」で大串章選で入選した句。(八木忠栄)
October 282008
歩きまはればたましひ揺らぐ紅葉山
本郷をさむ
そろそろ都心の街路樹も色づき始めた。淡い色彩で満開になる桜と違い、鮮やかな赤や黄色が満載の紅葉を視界いっぱいに映していると、くらくらとめまいがするような心地になる。それは、単純に色だけの問題ではなく、もしかしたら科学的に身体や視覚に作用するなにかがあるのかもしれないと調べてみたら、紅葉の仕組みはまだ解明されていない点が多いらしい。花見や月見と違って、紅葉を見物することは紅葉狩、「見る」ではなく「狩る」なのである。秋の山の奥へ奥へと進み、紅葉する木々を眺めることは、花や月を愛でつつ飲食を伴う遊山とは違う、きりりと張り詰めた緊張感があるように思う。透き通った空気のなかで原色の世界に身を置く不安が「足を止めてはいけない」と、心を揺さぶるのだろうか。ところで、書名となっている「物語山」とは、群馬県下仁田町にある実在の山だという。名の由来には諸説あるらしいが、この風変わりな名を持つ山では、きっと魂を閉じ込めておくのが難しいほどの美しい紅葉を見せてくれるのではないかと思うのだった。〈物語山返信のやうに朴落葉〉〈コンビニを曲りて虫の村に入る〉『物語山』(2008)所収。(土肥あき子)
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