素人写真でも行き詰まることがある。いまがその時期。焦っても仕方がないが。(哲




2008ソスN10ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 23102008

 省略がきいて明るい烏瓜

                           薮ノ内君代

ことに省略のきいたものは明るい輝きを持っている。俳句もしかり、さっぱりと片付けた座敷も。ところで秋になると見かける烏瓜だけど、あれはいったいどんな植物のなれの果てなのだろう。気になって調べてみると実とは似ても似つかない花の写真が出てきた。白い花弁の周りにふわふわのレースのような網がかかった美しい花。夏の薄暮に咲いて昼には散ってしまうという。「烏瓜の花は“花の骸骨”とでも云った感じのするものである。遠くから見る吉野紙のようでもありまた一抹の煙のようでもある。」と寺田寅彦が『烏瓜の花と蛾』で書いている。烏瓜というと、秋になって細い蔓のあちらこちらに明るい橙色を灯しているちょうちん型の実しかしらなかったので、そんな美しい経歴があろうとは思いもよらなかった。実があるということはそこの場所に花も咲いていたろうに、語らず、誇らず枯れ色の景色の中につるんと明るい実になってぶら下がっている。省略がきいているのはその形だけではなかったのね。と烏瓜に話しかけたい気分になった。『風のなぎさ』(2007)所収。(三宅やよい)


October 22102008

 刷毛おろす襟白粉やそぞろ寒

                           加藤 武

かにも演劇人らしい視線が感じられる。役者が楽屋で襟首に刷毛で白粉(おしろい)を塗っている。暑い時季ならともかく、そろそろ寒くなってきた頃の白粉は、一段と冷やかに白さを増して目に映っているにちがいない。他人が化粧している様子を目にしたというよりも、ここは襟白粉を塗っている自分の様子を、鏡のなかに見ているというふうにも解釈できる。鏡を通して見た“白さ”に“寒さ”を改めて意識した驚きがあり、また“寒さ”ゆえに一段と“白さ”を強く感じてもいるのだろう。幕があがる直前の楽屋における緊張感さえ伝わってくるようである。もっとも、加藤武という役者が白粉を塗っている図を想像すると、ちょっと・・・・(失礼)。生身の役者が刷毛の動きにつれて、次第に“板の上の人物”そのものに変貌してゆく時間が、句に刻みこまれている。東京やなぎ句会に途中から参加して三十数年、「芝居も俳句も自分には見えないが、人の芝居や句はじつによく見える」と述懐する。ハイ、誰しもまったくそうしたものなのであります。俳号は阿吽。他に「泥亀の真白に乾き秋暑し」「行く春やこの人昔の人ならず」などがある。どこかすっとぼけた味のある、大好きな役者である。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


October 21102008

 動物は一人で住んで蓼の花

                           川島 葵

(たで)科の花は、「水引(みずひき)」「溝蕎麦(みぞそば)」「継子の尻拭い(ままこのしりぬぐい)」など、どれも野道で見かけるつつましい花である。その野の花の奥に住む生きものの姿を思い浮かべる。大多数の動物は母親だけで子育てをする。そこに父親と名乗るものが登場しても、彼はあたたかく出迎えられるどころか、侵入者として威嚇されることだろう。さらに親子であっても子離れの早さや、その後の徹底した縄張り争いなどを思うと、動物たちの「一人で住んで」の厳しさを思う。一匹でも一頭でもなく「一人」と書かれることに違和感を覚えるむきもあるだろうが、作者はより人間に引きつけて思いを強くしているのだろう。さらに谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』が、人間の混迷する関係を描く小説だったことを思うと、掲句の「動物」にもうひとつの側面が見えてくる。〈秋澄むや子供が靴を脱ぎたがり〉〈我々の傾いてゐる葦の花〉『草に花』(2008)所収。(土肥あき子)




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