東京の秋は、いまがいちばん快適な頃でしょうか。昼間は少々暑いのですが。(哲




2008ソスN10ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 22102008

 刷毛おろす襟白粉やそぞろ寒

                           加藤 武

かにも演劇人らしい視線が感じられる。役者が楽屋で襟首に刷毛で白粉(おしろい)を塗っている。暑い時季ならともかく、そろそろ寒くなってきた頃の白粉は、一段と冷やかに白さを増して目に映っているにちがいない。他人が化粧している様子を目にしたというよりも、ここは襟白粉を塗っている自分の様子を、鏡のなかに見ているというふうにも解釈できる。鏡を通して見た“白さ”に“寒さ”を改めて意識した驚きがあり、また“寒さ”ゆえに一段と“白さ”を強く感じてもいるのだろう。幕があがる直前の楽屋における緊張感さえ伝わってくるようである。もっとも、加藤武という役者が白粉を塗っている図を想像すると、ちょっと・・・・(失礼)。生身の役者が刷毛の動きにつれて、次第に“板の上の人物”そのものに変貌してゆく時間が、句に刻みこまれている。東京やなぎ句会に途中から参加して三十数年、「芝居も俳句も自分には見えないが、人の芝居や句はじつによく見える」と述懐する。ハイ、誰しもまったくそうしたものなのであります。俳号は阿吽。他に「泥亀の真白に乾き秋暑し」「行く春やこの人昔の人ならず」などがある。どこかすっとぼけた味のある、大好きな役者である。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


October 21102008

 動物は一人で住んで蓼の花

                           川島 葵

(たで)科の花は、「水引(みずひき)」「溝蕎麦(みぞそば)」「継子の尻拭い(ままこのしりぬぐい)」など、どれも野道で見かけるつつましい花である。その野の花の奥に住む生きものの姿を思い浮かべる。大多数の動物は母親だけで子育てをする。そこに父親と名乗るものが登場しても、彼はあたたかく出迎えられるどころか、侵入者として威嚇されることだろう。さらに親子であっても子離れの早さや、その後の徹底した縄張り争いなどを思うと、動物たちの「一人で住んで」の厳しさを思う。一匹でも一頭でもなく「一人」と書かれることに違和感を覚えるむきもあるだろうが、作者はより人間に引きつけて思いを強くしているのだろう。さらに谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』が、人間の混迷する関係を描く小説だったことを思うと、掲句の「動物」にもうひとつの側面が見えてくる。〈秋澄むや子供が靴を脱ぎたがり〉〈我々の傾いてゐる葦の花〉『草に花』(2008)所収。(土肥あき子)


October 20102008

 色鳥や切手はいまも舐めて貼る

                           川名将義

に渡ってくる小鳥たちのなかでも、マガモやジョウビタキなど、姿の美しいものを「色鳥(いろどり)」と言う。どんな歳時記にもそんな説明が載っているけれど、まず日常用語の範疇にはない。美しい言葉だが、ほとんどの人は知らないだろう。俳句を知っていて少しは良かったと思うのは、こういうときだ。ただし、揚句の色鳥は実物ではなくて、切手に描かれた鳥たちのことを指している。なぜ切手に鳥が多く印刷されているのかは知らない。が、とにかく鳥と花が切手図案の双璧である。切手の世界も「花鳥風月」なのかしらん(笑)。そんな鳥の切手を、作者はぺろりと舐めて貼ったのである。「いまも」と言うのだから、子供の頃からそうしてきたのだ。そして子供の頃から、こういう貼り方には抵抗があったのだろう。オフィスなどで見られる水を含んだスポンジなどで湿して貼るほうが上品だし清潔だし、第一、ぺろっと舐めて貼るなんぞは相手に対して失礼な感じがする。しかし、わかっちゃいるけど止められない。ついつい、ぺろっとやってしまう。それだけの句であるが、人はそれだけのことを、気にしつつも生涯修正しないままに続けてしまうことが実に多い。そのあたりの機微を、この句は上手く言い止めている。なんでもない日常の小事をフレームアップできるのも、俳句ならではのことと読んだ。余談だが、谷川俊太郎さんが「ぼくは切手になりたいよ」と言ったことがある。「それも高額のものじゃなくて、普通の安い切手ね。そうなれれば、いろんな人にぺろぺろ舐めて貰えるもん」。『湾岸』(2008)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます