October 182008
風葬の山脈遠く秋耕す
目貫るり子
裏作の畑に種を撒くことや、稲刈りを終えた田の土を起こすことを秋耕という。春の「耕し」に比べて、気持ちはややゆったりとして、ときおり仰ぐ空は青く高い。くっきりとした稜線を見せながら、仄かに色づきつつある山。そのまた先の見知らぬ山々と、どこまでも続く澄んだ空に、風葬、の一語が風となって渡ってゆく。空葬ともよばれる風葬は、山奥の洞窟や高い木の上、海に向かった断崖などを選んで行われたという。晒される、と考えると、その語感とはうらはらな印象もあるが、この句の風葬の山のその先には、海が広がり遙かな水平線が見える。澄んだ青空から山そして海へ、風と共に彷徨うように運ばれた視線。それを、秋耕す、の下五が、足元の大地へひきもどす。耕すことは生きることであり、遠近の対比は、生と死の対比でもあるのだろう。『彩 円虹例句集』(2008・円虹発行所)所載。(今井肖子)
October 172008
ときに犬さびしきかほを秋彼岸
山上樹実雄
前世というものがあったのなら、僕は犬だったような気がする。初めて出遭った犬も僕には妙に親近感を示す。「不思議よねぇ。この犬、他人にはだめなんだけど」なんて言われるとこちらも尻尾をふりたくなる。昔から犬顔だと言われ、犬という渾名をつけられたこともある。僕はどんな犬だったのだろうか。目をつぶって念じて観ると、白粉花なんかが路傍に咲いている坂のある街が見えてきた。何種もの血が混じってなんとも愛嬌のある風貌をした僕は、毎日そんな坂を上り下りしたのだった。散歩の帰りに坂の上から見る茜雲のきれいだったこと。写生という方法は、瞬間のカットの中に永遠を封印する。秋の日向の道にしゃがんで犬の背や頭を撫でているときに、犬はふっと人間のような表情を見せる。犬の前世は人間だったのかも知れぬ。人間から犬へ、犬から人間へ。輪廻の永遠の時間の中の瞬間が今だ。秋彼岸とはそのことへの意識。『晩翠』(2008)所収。(今井 聖)
October 162008
硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ
大本義幸
面識はなくとも篤実な人柄を感じさせる俳人がいる。この作者の俳句を読むとしみじみと懐かしさがこみあげてくる。「熱き尿放つ京浜工業地帯の夜の農奴よ」「旗を灯に変えるすべなし汗の蒲団」など時代のやるせなさを詠じた句も多いが、重苦しい現実との闘いを経ても作者の心はへし折れることはない。「朝顔にありがとうを云う朝であった。」抒情溢れる句が生み出す優しい強さに力づけられる。掲句について大井恒行は解説で「ついに風が充ちないことを知りながら、なお、充ちてよと願わざるを得ないのである。」と書き綴っている。「硝子器」とは現実に息詰まりそうになる自分自身であろうが、その内側にある精神はすがすがしい風に充たされ、解き放たれることを乞わずにはいられない。純粋なものへの憧れを抱き続ける心がこの国の情けない姿に悲嘆しつつも、「この国に死なむ」とすべてを受け入れようとしているのだろう。苦しみの底にこそ軽やかな精神が存在する。作者がたどってきた複雑な人生の色合いが俳句に織りなされた一冊だと思う。『硝子器に春の影みち』(2008)所収。(三宅やよい)
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