秋晴れになりそうなので、午後はデジカメ持って散歩することにします。(哲




2008ソスN10ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 12102008

 人間が名付け親なり鰯雲

                           酒井せつ子

際に空を仰いで見るというよりも、この季節になると、鰯雲の「写真」をたびたび見ることがあります。ネットであったり、新聞であったり、雑誌であったり、まるで「鰯雲」という新商品がいっせいに発売されたかのように、空の写真が頻繁に日常の中に入り込んできます。たしかにそのすがたは美しく、目を雑誌に落としている瞬間も、遠くの空を見渡しているような心持になるものです。今日の句は、鰯雲の見た目を詠っているのではなく、句を作る発想の足元を、一歩後ろへ下げています。すでにあるものとしてそのものを詠うのではなく、そのものの成り立ちや起源に目を向けることは、俳句の世界では必ずしも珍しいことではありません。それでもこの句が私の目を惹いたのは、「ああそうか、ひとつひとつの名前の奥には、名づけるという人の動作が隠されているのだ」ということを、改めて思い出させてくれたからなのです。さらに、「名付け親」の一語が、妙に物語めいた雰囲気を醸しだしていて、読み手を空想の世界に導いてくれるのです。ただ漫然と空を見上げているだけでも、わたしたちが「名付け親」なのだと思えば、鰯雲との距離も、かすかに近づいてくるはずです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年10月6日付)所載。(松下育男)


October 11102008

 カンガルー横座りして小鳥来る

                           永沢達明

の通勤途中に仰ぐ空が、日々高くなってきた。そしてどこからともなく降ってくる小鳥の声。それは秋日のように、次々と青空からこぼれ、花水木の小さい赤い実をゆらしている。小鳥来る、主語述語、と具体的でありながら、秋という季節の持つ明るい一面を軽やかに象徴する季節の言葉だ。そこにカンガルー。以前見た横座りしているカンガルーは、肩と肘(?)のあたりや伸びた後ろ脚が、思わずまじまじと見入ってしまうほど人間ぽく、いきなり話しかけられても普通に会話できそうだったのを思い出す。そんな、ふっと笑ってしまうようなカンガルーのはっきりとした姿と、小鳥来る、の持つきらきら感が出会って、一句に不思議なおもしろさと、自由でのびのびとした表情を与えている。明日から、小鳥の声を聞くたびに、カンガルーを思い浮かべてしまいそうな、インパクトの強い句である。『彩 円虹例句集』(2008・円虹発行所)所載。(今井肖子)


October 10102008

 夜昼夜と九度の熱でて聴く野分

                           高柳重信

信は「もの」を写してつくる手法をとらない。現実や風景がそこに在るように写すことの意義を認めない。五感を通して把握した「実感」を第一義に優先して言葉にすることの意義も認めない。俳句に用いる言葉は詩語であるから、言葉自体から発するイメージを紡いでいくのが本質だと思っている。だから彼が伝統俳句を読み解くときも詩語としての働きが言葉にあるかどうかの角度から始める。飯田龍太の「一月の川一月の谷の中」も最初にこの人が取り上げて毀誉褒貶の論議が起こった。その角度に対する賛否はここでは言わない。ただ、この句、「夜昼夜」の畳み掛けに驚きとリアリティがあり「九度」もまた作者にとっての「真実」を援護する。たとえ、それが仕掛けだろうと伝統的書き方に対する揶揄だろうと。と、これは自分の実感を第一義に考える側に立った角度からの鑑賞である。朝日文庫『金子兜太・高柳重信集』(1984)所収。(今井 聖)




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