世界的金融危機深まる。関係ないんだけど、関係づけられてしまう庶民。(哲




2008ソスN10ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 10102008

 夜昼夜と九度の熱でて聴く野分

                           高柳重信

信は「もの」を写してつくる手法をとらない。現実や風景がそこに在るように写すことの意義を認めない。五感を通して把握した「実感」を第一義に優先して言葉にすることの意義も認めない。俳句に用いる言葉は詩語であるから、言葉自体から発するイメージを紡いでいくのが本質だと思っている。だから彼が伝統俳句を読み解くときも詩語としての働きが言葉にあるかどうかの角度から始める。飯田龍太の「一月の川一月の谷の中」も最初にこの人が取り上げて毀誉褒貶の論議が起こった。その角度に対する賛否はここでは言わない。ただ、この句、「夜昼夜」の畳み掛けに驚きとリアリティがあり「九度」もまた作者にとっての「真実」を援護する。たとえ、それが仕掛けだろうと伝統的書き方に対する揶揄だろうと。と、これは自分の実感を第一義に考える側に立った角度からの鑑賞である。朝日文庫『金子兜太・高柳重信集』(1984)所収。(今井 聖)


October 09102008

 弁当は食べてしまつた秋の空

                           麻里伊

動会、ピクニック、山登り。行楽に気持ちのよい季節になった。芝生の上に色とりどりのビニールシートを広げて、それぞれの家族が食事を楽しんでいる。コンビ二やデパートの弁当を買ってきて外で食べるだけでも気分が変わっていいものだけど、弁当の王者はなんと言っても三段重ねの重箱だろう。各地を転勤して回ったなかで一番弁当が豪華だったのは鹿児島の運動会だった。ご近所が誘い合って座る大判のビニールシートの真ん中にいくつも重箱が並び、魔法瓶に詰めた焼酎を酌み交わしていた。このご時世アルコールは禁止になっているだろうが、あの賑わいはよかった。手の込んだ弁当をみんなで食べるのも楽しみだが、梅干をどかんとおいた日の丸弁当でも充分。一粒も残さず食べた空っぽの弁当の蓋を閉じて見上げればどこまでも広がる秋の空。「食べてしまつた」と単純な言葉であるが、楽しい行楽の半ば以上が終わってしまったさみしさと秋空の空白感が響き合っている。運動会、遠足。あんなにもお弁当が楽しみだった子供の、家族の心持ちを懐かしく思い出させる句である。『水は水へ』(2002)所収。(三宅やよい)


October 08102008

 家遠く雲近くして野老掘る

                           佐藤春夫

老(ところ)は薯蕷(とろろ)芋や山芋と属は同じヤマイモ科だが、別のものである。苦いので食用には適さず、薬用とされる。ヒゲ根が多いところから長寿の老人になぞらえて、「海老(えび)」に対して「野老」と記すといういわれがおもしろい。高い山で野老を探して掘りつづけているのである。だから晴れわたった秋空に浮く雲は、すぐ近くに感じられる。もちろん奥山だから、わが家(あるいはその集落)からは、遠いところに来てしまっている。野老を掘っているうちに、いつのまにか山の高いあたりまで到りついたのであろう。広大な風景のなかの澄みわたった空気、その静けさのなかで黙々と掘る人の映像が見えてくる。この場合の「遠」と「近」との対照的な距離が、句姿を大きく見せている。いかにも秋ではないか。春夫の句について、村山古郷は「形や内容にとらわれないで、のびのび嘱目感想を詠んだ」と評している。秋を詠んだ他の句に「柿干して一部落ある夕日ざし」「思ひ見る湖底の村の秋の燈を」などがある。いずれも嘱目吟と思われる。『能火野人(のうかやじん)十七音詩抄』(1964)所収。(八木忠栄)




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