阪神、なんとか引き分けに。巨人は負けたけど、ほとんど草臥れ儲けだな。(哲




2008ソスN10ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 05102008

 夕焼けて玩具の切符は京都行き

                           西宮陽子

焼けは夏の季語ですが、個人的にはむしろ、秋が似合っている感じがするのです。それはたぶん、日の暮れ方の寂しさが、寒さへ向かう季節を連想させるからなのだと思います。一日を終えて、夕焼けを顔いっぱいに浴びながらその日の終点にたどり着く。この句を読んでいると、そんな時の動きが、空間の移動に自然に結びついてきます。とはいうものの、「玩具の切符」というのですから、この移動は遊びの中の出来事でしかありません。作者は、縁側に置きっぱなしにされた子供の遊び道具を見ているのでしょうか。夕焼けがきれいに映し出すその中に、薄っぺらな紙に電車の切符を模した玩具があります。見れば行き先は京都。かつての人生で、京都に行った日のことなども思い出していたのかもしれません。「切符」という言葉を見るだけで、ちょっとうれしくなるのはなぜなのでしょうか。この句を読んでいると、胸がどこかしら、弾んでくるのです。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)


October 04102008

 人形焼ころころ生まる秋日和

                           石原芳夫

田原駅前にあったデパートの地下のガラス張りの一角。人形焼きが次々に焼き上がっていくのを、おそらくぽかんと口を開けて飽きずに見ていた。脈絡も理由もなく、断片的に記憶されている場面の一つ。薄暗い蛍光灯の光の中で続く単純作業に、なぜか見入ってしまうのだった。この句は九月二十四日、吟行句会で出会った一句。吟行場所は浅草だったので、仲見世の人形焼き屋である。この日は朝からよく晴れ少し暑いくらいの一日で、色濃い秋日が浅草の賑やかな風景と混ざり合った、まさに秋日和だった。吟行は、行ばかりになって、吟がおろそかになってはいけない、と言われる。歩いていてもできません、立ち止まってともかく観よ、空を見上げて、それから足元を観よ、とも。それはなにも、眉間に皺を寄せて難しいことを考えよというわけではないだろうけれど、それにしてもついうろうろきょろきょろ。何気なく立ち止まった人形焼き屋の店先で、こんなふうに、軽やかでくっきりした吟行句が生まれることもあるんだなあ、と。(今井肖子)


October 03102008

 私忌いな世界忌の大夕焼

                           高橋睦郎

のボタンを押す権利を持ってる人が、自分の死後もこの現実世界が続くことをねたましく腹立たしく思い、自らの死の瞬間にボタンを押して世界を消滅させる。そうすれば私忌が世界忌になる。日曜の朝の子供向けドラマのような想定を、死ぬということがむしょうに怖かったころよく考えた。ドラマだとここでウルトラマンか仮面ライダーが現れ、その悪の支配者を倒して終わる。かくしてまた現実世界は平安を取り戻すのである。ここで作者が言うのは「認識」のことだ。知覚するがゆえに我が存する。自分が死ねばおのずから世界も消滅する。自分が死んだあと、自分にとっては存在しない「世界」を夕焼が照らす。これこそ「虚」の美しさだ。『別冊俳句・平成秀句選集』(2007)所載。(今井 聖)




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