例によってタイガースは先手を取られすぎ。まあ、今年の持ち味ではあるけれど。(哲




2008ソスN9ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2092008

 馬鈴薯の顔で馬鈴薯堀り通す

                           永田耕衣

本では、縄文時代からあったという里芋に比べると、歴史の浅い馬鈴薯(じゃがいも)だが、今や最もポピュラーな「いも」といえるのではないだろうか。馬鈴薯といえば北海道、原産地といわれるアンデス地方に気候が似ているのだというが、そういえば、インカの目覚め、とか、アンデスレッド、などという品種を見かけることがある。今ちょうど家にあった男爵を手にとってみる。産地は夕張、ごつごつとして、指に大地の乾いた土が付く。その馬鈴薯を掘り通す、しかも馬鈴薯の顔で。一途で力強い表現に惹かれながら、開拓民がジャガイモのすいとんを食べる、という話を何かで読んだことを思い出す。現在の北海道の豊かな実りにたどり着くまでの開拓者の苦労は、推して知るべしだろう。そう思うと、馬鈴薯というひとつの自然の産物の持つ力によって、この句から、人間の生き抜く力がいくばくかの悲しみを伴って迫ってくる。馬鈴薯の句、人間の句。『俳句歳時記 第四版 秋』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


September 1992008

 間引菜をうばつて鶏の走りけり

                           よしひこ

んないきいきした鶏をずっと見ない。烏の賢さや狡さを人間は話題にするけど、鶏の賢さや狡さは語られることはない。嫌がられても烏の方がまだ動物として扱われている。鶏は違う。人にとって鶏はそもそも心や知能を持たない存在なのだ。鳥取県で鶏二千羽と暮らしていたとき、手乗り鶏を作ろうと考えた父は、雛の頃から訓練をして見事に手乗り鶏を育てあげた。シロと呼ばれた白色レグホンはひょいと差し出された僕の腕に飛び乗った。爪が痛いので布を腕に巻かなければならないのが難点。この鶏は地元の新聞に写真入りで報道された。鳥インフルエンザの伝染を防ぐためとして数百万羽の鶏の焼却処分が当然のように語られる現代、一方でトキの繁殖が奇跡のように喜ばれている。ああ、鶏はかわいそうだ。虚子編『新歳時記・増訂版』(1951)所載。(今井 聖)


September 1892008

 満月の終着駅で貝を売る

                           武馬久仁裕

葉だけ追ってゆくと現実のありふれた描写のように思えるのに、俳句全体は非現実的な雰囲気を醸し出している。季の言葉としての「月」はそのさやけさが中心だが、この句は満ちた月と終着という時間性に重きが置かれている。それが季を超えた幻想的なイメージをこの句に与えているのだろう。満月に照らされている駅は出発駅にして終着駅。ここから出立した電車はすべてこの場所へ帰ってくる。そう思えば月光に浮かび上がる終着駅は『銀河鉄道の夜』や『千と千尋の神隠し』にあるようにこの世と違う次元にある駅のようだ。それならば貝を売っている場所はつげ義春の漫画にあるような鄙びた海沿いのモノトーンの景色が似合いだ。無人駅の裏にある小さな露店に暗い裸電球をぶらさげ顔も定かでない人が貝を売っている。売られている貝は粒の小さい浅利、真っ黒なカラス貝?それともこの世から消えた幻の貝?満月の下に売られている貝を想像してみるのも一興だろう。『貘の来る道』(1999)所収。(三宅やよい)




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