「俳句界」10月号の出張校正。それこそ「必死のバッチ」でやらねば。(哲




2008ソスN9ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1692008

 月夜茸そだつ赤子の眠る間に

                           仙田洋子

夜茸は内側の襞の部分に発光物質を含有し、夜になると青白く光るためその名が付いたという。一見椎茸にも似ているが、猛毒である。ものごとにはかならず科学的根拠があると信じているが、動き回る必要のない茸がなぜ光るのかはどうしても納得できない。元来健やかな時間であるはずの「赤子の眠る間」のひと言にただならぬ気配を感じさせるのも、月夜茸の名が呼び寄せる胸騒ぎが、童話や昔話を引き寄せているからだろう。ふにゃふにゃの赤ん坊の眠りを盗んで、茸は育ち、光り続けるのだと思わせてしまう強い力が作用する。不思議は月夜によく似合う。あちこち探して、月夜茸の写真を見つけたが、保存期限が過ぎているため元記事が削除されてしまっていた。紹介するのがためらわれるほど不気味ではあるが、ご興味のある向きはこちらで写真付き全文をご覧いただける。タイトルは「ブナの林に幻想的な光」。幻想的というよりどちらかというと「恐怖SF茸」という感じ。〈水澄むや盛りを過ぎし骨の音〉〈鍋釜のみんな仰向け秋日和〉『子の翼』(2008)所収。(土肥あき子)


September 1592008

 敬老の日のとしよりをみくびる芸

                           瀧 春一

日敬老の日に、たいていの自治体が高齢者を招いて演芸会を開く。このテレビ時代に演芸会でもあるまいにと思うが、我が三鷹市でも77歳以上の市民を対象に「敬老のつどい」がこの土日に開かれた。ちなみに、出し物は青空球児・好児の漫才と菊池恵子の歌謡ショーだった。むろん私は見ていないので、みくびりがあったかどうかは何も知らない。ただ揚句が言うように、テレビではかなり以前から「みくびり芸」が多いことに腹を立ててきた。元凶はNHKのど自慢の司会者だった宮田輝だと、私は言い張りたい。高齢者が登場するや、抱きかかえんばかりの表情で、名前を呼ばずに「おじいちゃん、おばあちゃん」を連発した男だ。彼の前に出たら最後、出演する高齢者は固有の名前を剥ぎ取られ、彼のペースで良き老人役を演じさせられるのだから、たまらない。かつて私は芸能プロまがいの事務所にいたことがあるのでわかるのだが、この宮田ウィルスの跳梁ぶりはひどかった。作者はそんな時代に、敬老行事に招かれたのだろう。瀧春一は十五歳で三越に入社し、戦後は労組の副委員長を務めた苦労人だ。「みくびり」などは、すぐにわかってしまう。この句が哀しいのは、しかしみくびりを見抜きながらも、芸人に「なめるんじゃない」とは言えないところだ。言っても甲斐がない。多くの高齢者は、そんなふうにあきらめているように思える。私もいずれ、そうなるのかもしれない。『硝子風鈴』(1971)所収。(清水哲男)


September 1492008

 うらがえすやもう一つある秋刀魚の眼

                           五十嵐研三

い先日も、夕食のテーブルの上に、ちょこんと載っていました。勤めから帰って、思わず「サンマか」と、口から出てきました。特段珍しいものではありませんが、箸をつけて口に入れた途端、そのおいしさに素直に驚いてしまいました。掲句、「うらがえすや」とあるのですから、片面を食べ終わって箸で裏返したところを詠っています。眼がもう一つあると、わざわざ言っているからといって、秋刀魚の眼を意識しながら食べていたわけでもないのでしょう。それほどに威圧的に見つめられているわけでもなく、眼のある位置に眼があるのだと、あたりまえの感慨であったのかと思います。とはいうものの、秋刀魚を食べている時に、眼がもう片方にもあるのだとは、通常は考えないのですから、ここに文芸作品としての発見があるのは言うまでもありません。ただ、そんなことはことさらに書くことでもないのです。その、ことさらでないところが、秋刀魚という魚のもっている特長とちょうどよくつりあっており、この句は、日々の生活に添うように、不思議な安心感を与えてくれるのです。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)




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