お立ち台で阪神の選手が言う「必死のパッチ」って、どんな意味だろう。(哲




2008ソスN9ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1592008

 敬老の日のとしよりをみくびる芸

                           瀧 春一

日敬老の日に、たいていの自治体が高齢者を招いて演芸会を開く。このテレビ時代に演芸会でもあるまいにと思うが、我が三鷹市でも77歳以上の市民を対象に「敬老のつどい」がこの土日に開かれた。ちなみに、出し物は青空球児・好児の漫才と菊池恵子の歌謡ショーだった。むろん私は見ていないので、みくびりがあったかどうかは何も知らない。ただ揚句が言うように、テレビではかなり以前から「みくびり芸」が多いことに腹を立ててきた。元凶はNHKのど自慢の司会者だった宮田輝だと、私は言い張りたい。高齢者が登場するや、抱きかかえんばかりの表情で、名前を呼ばずに「おじいちゃん、おばあちゃん」を連発した男だ。彼の前に出たら最後、出演する高齢者は固有の名前を剥ぎ取られ、彼のペースで良き老人役を演じさせられるのだから、たまらない。かつて私は芸能プロまがいの事務所にいたことがあるのでわかるのだが、この宮田ウィルスの跳梁ぶりはひどかった。作者はそんな時代に、敬老行事に招かれたのだろう。瀧春一は十五歳で三越に入社し、戦後は労組の副委員長を務めた苦労人だ。「みくびり」などは、すぐにわかってしまう。この句が哀しいのは、しかしみくびりを見抜きながらも、芸人に「なめるんじゃない」とは言えないところだ。言っても甲斐がない。多くの高齢者は、そんなふうにあきらめているように思える。私もいずれ、そうなるのかもしれない。『硝子風鈴』(1971)所収。(清水哲男)


September 1492008

 うらがえすやもう一つある秋刀魚の眼

                           五十嵐研三

い先日も、夕食のテーブルの上に、ちょこんと載っていました。勤めから帰って、思わず「サンマか」と、口から出てきました。特段珍しいものではありませんが、箸をつけて口に入れた途端、そのおいしさに素直に驚いてしまいました。掲句、「うらがえすや」とあるのですから、片面を食べ終わって箸で裏返したところを詠っています。眼がもう一つあると、わざわざ言っているからといって、秋刀魚の眼を意識しながら食べていたわけでもないのでしょう。それほどに威圧的に見つめられているわけでもなく、眼のある位置に眼があるのだと、あたりまえの感慨であったのかと思います。とはいうものの、秋刀魚を食べている時に、眼がもう片方にもあるのだとは、通常は考えないのですから、ここに文芸作品としての発見があるのは言うまでもありません。ただ、そんなことはことさらに書くことでもないのです。その、ことさらでないところが、秋刀魚という魚のもっている特長とちょうどよくつりあっており、この句は、日々の生活に添うように、不思議な安心感を与えてくれるのです。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


September 1392008

 日の丸を小さく掲げ島の秋

                           阪西敦子

るい句である。日の丸の赤と白、高い空と島を取り囲む海の青、そのコントラストは誰もが感じるだろう。島、というから、そう大きくはない集落。そこにはためく日の丸を、小さく掲げ、としたことで、広がる景は晴々と大きいものになった。日の丸はどこに掲げられてあり、作者の視点がどこにあるのだろう、といったことを考えて読むより、ぱっと見える気持ちのよい秋晴れの島を感じたい。実際は、この句が詠まれた吟行会は、神奈川県の江の島で行われたのであり、日の丸の小旗は、入り江の漁船に掲げられていたのだった。しかし、それとは違う日の丸を思い浮かべたとしても、作者がとらえた晴々とした島の秋は、読み手に十分感じられることだろう。同じ風が吹いているその時に、もっとも生き生きとする吟行句とは一味違って、色褪せない一句と思う。「花鳥諷詠」(2008・七月号)所載。(今井肖子)




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