日本列島全体がさわやかに晴れるという予報。大いに期待しましょう。(哲




2008ソスN9ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0992008

 菊の日のまだ膝だしてあそびゐる

                           田中裕明

日重陽(菊の節句)。3月3日の桃の節句や5月5日の端午の節句、7月7日の七夕などの他の五節句に比べるとかなり地味な扱いではあるが、実は「陽数の極である九が重なることから五節句のなかで最もめでたい日」であり、丘に登って菊花酒を酌み交わし長寿を祈るという、きわめて大人向けの節句である。旧暦では十月初旬となり、本来の酒宴はすっかり秋も定着している景色のなかで行うものだが、はっきり秋とわかる風を感じるようになったここ数日、落ち着いて来し方行やく末につれづれなる思いを馳せていることに気づく。掲句では、むき出しの膝が若さを象徴している。四十半ばで早世した作者に、雄大な自然を前に無念の心を詠んだ杜甫の七言律詩「登高」の一節「百年多病(ひゃくねんたびょう)独登台(ひとりだいにのぼる)」が重なる。眼前の健やかな膝小僧が持つ途方もない未来を眩しく眺める視線に、菊の日の秋風が底知れぬ孤独を手招いているように思えるのだ。『田中裕明全句集』(2007)所収。(土肥あき子)


September 0892008

 向ひあふ真夜の西瓜のあかあかと

                           丹羽真一

の句にポエジーを感じるのは、読者がこの一行を「俳句」として書かれているのだと認識して読むからだろう。散文や自由詩の切れ端ならば、他の行で相当ていねいにフォローしてやる必要がありそうだ。叙述としては、とりあえず「真夜(深夜)」に西瓜を食べることになった心持ちを述べているだけである。西瓜を食べるのに別に決まった時間はないのだけれど、深夜に西瓜はなんとなくそぐわない。そのそぐわなさは俳句の季語のしばりから、あるいは世間常識から来ているもので、俳句の読み一般から常識を抜くことは不可能に近い。何かの行きがかりで、作者は深夜に西瓜を食べる羽目になり、それも「向ひあふ」というくらいの大きさのものなので、ちょっとたじろいでいる。とても「かぶりつく」気にはなっていない。手を伸ばす前に西瓜を見て、それが「あかあかと」して見えるところに、たじろいでいる感じがよく出ている。「赤々と」ではなく「あかあかと」見えていて、この「あか」にはいささかの毒気すら感じられる。私はこの句を読んだときに、「ああ、俳句的とはこういうことだな」と直覚した。そしてこの「あかあか」が、しばらく脳裏に焼きついて離れなかった。俳句様式でないと成立しない「詩」が、ここにある。俳句同人誌「琉」(2008年8月・14号)所載。(清水哲男)


September 0792008

 悲しみに大き過ぎたる西瓜かな

                           犬山達四郎

西瓜が秋の季語だということは、先日知ったばかりです。季語と季節感のずれについては、この2年でだいぶ慣れてきましたが、それでも今回はさすがに違和感をもちました。本日の句、はじめから「悲しみ」が差し出されてきます。こんなふうに直接に感情を投げ出す句は、読み手としては読みの幅が狭められて、多少の戸惑を感じます。それでもこの句にひかれたのは、「悲しみ」と「西瓜」の組み合わせのためです。たしかに、「悲しみ」をなにかに喩えるのは、他の感情よりも容易なことかもしれません。それでもこの句の西瓜は、充分な説得力を持っています。大き過ぎる西瓜を渡されて、両手で抱えている自分を想像します。抱え切れない悲しみに、途方にくれている自分を想像します。さらにその大きさに、目の前の視界をふさがれた姿を想像します。悲しみにものが見えなくなっている自分を、想像します。どんなささいな悲しみも、当事者にとってはそれ相応の大きさを持つものなのでしょう。そして形は、この句がいうように、とらえどころのない球形なのかもしれません。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年9月1日付)所載。(松下育男)




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