よく降りますね。東京はこの週末も雨模様。抜けるような青空が見たい。(哲




2008ソスN9ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0692008

 鬼やんま湿原の水たたきけり

                           酒井 京

蛉捕りは夏休みの思い出だけれど、たまたま訪れた八月の校庭に赤とんぼが群れているのを見て、ああもう秋なんだ、ともの寂しくなった記憶がある。鬼やんまは、一直線に猛スピードで飛んでいて、捕虫網で捕ることなど到底無理だったが、窓から突然すごい勢いで家の中に飛び込んで来ることがあった。部屋の中でもその勢いは止まらず、壁にぶつからんばかりに飛び続けてはUターンする。祐森彌香の〈現世の音消してゐる鬼やんま〉という句を、先日人伝に聞き、飛ぶことにひたむきな鬼やんまの、何度か噛まれた鋭い歯と、驚くほどきれいな青い眼と縞々の胴体をまざまざと思い出した。掲出句の鬼やんまは、湿原にいる雌。水をたたくとは、産卵しているのだろう。残念ながら鬼やんまの産卵に遭遇したことはないのだが、水面と垂直にした胴体を、底に何度も音がするほど突き刺して一心に産卵するという。湿原の水たたきけり、は、そのひたむきさを目の当たりにしながら、さらに観て得た、静かな中に生命力を感じさせる表現である。『俳句歳時記 第四版 秋』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


September 0592008

 月光の走れる杖をはこびけり

                           松本たかし

、降る。風、吹く。鷹、舞う。みんな成句。杖とくれば、つく。が常套。杖、はこぶ。これだけで成句を抜けている。すでにオリジナリティの端緒はここに存する。この句の表現は全体の動きの速度に統一感がある。「月光の走れる」のゆったりした語感が、「はこびけり」の動作のゆったり感につながる。描写がスローモーションで動いているのである。「もの」を写す方法の中のバリエーションとして、遠近法やらモンタージュやらトリヴィアルやらの工夫が生まれた。時間の流れをとどめて映像のコマをゆっくり廻してみせるこんな表現は個性というよりも「写生」の中での新しい方法に至っているといえるだろう。『虚子編新歳時記増訂版』(1951)所載。(今井 聖)


September 0492008

 一の馬二の馬三の秋の風

                           佐々木六戈

近復刻された岩波写真文庫『馬』の冒頭に「馬といえば競馬と思うほどに、都会人の常識は偏ってしまった。しかし、文化程度の低い日本では馬こそは未だに重要な生活の足である」と記述がある。収められた写真を見ればこの本が編集された1951年当時、農耕馬や荷車を引く輓馬(ばんば)が生活の中にいたことがわかる。といってもこれより数年遅く生まれた私には身近に働く馬の記憶はなく、馬と言えばこの記述にあるとおり競走馬なのだ。次々とやってくる馬はたとえば調教師にひかれてパドックを回る馬、レース前にスタート地点へ放たれる返し馬、ゴールに駆け込む馬の姿が思われる。鋼のように引き締まった馬が、一の馬、二の馬とやって来て、次はと待つところへ秋風が吹きわたってゆく。三の馬が吹き抜ける風に化身したようだし、この空白がやって来ない馬の姿をかえって強く印象づける。夏の暑さに弱い馬も涼しくなるにつれ生来の力強さが蘇る。秋の重賞レースも間近、颯爽とかける馬の姿が見たくなった。『佐々木六戈集』(2003)所収。(三宅やよい)




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