早くも郵便受けに「年賀状予約申込書」が…。雑誌よりもせっかちだ。(哲




2008ソスN9ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0592008

 月光の走れる杖をはこびけり

                           松本たかし

、降る。風、吹く。鷹、舞う。みんな成句。杖とくれば、つく。が常套。杖、はこぶ。これだけで成句を抜けている。すでにオリジナリティの端緒はここに存する。この句の表現は全体の動きの速度に統一感がある。「月光の走れる」のゆったりした語感が、「はこびけり」の動作のゆったり感につながる。描写がスローモーションで動いているのである。「もの」を写す方法の中のバリエーションとして、遠近法やらモンタージュやらトリヴィアルやらの工夫が生まれた。時間の流れをとどめて映像のコマをゆっくり廻してみせるこんな表現は個性というよりも「写生」の中での新しい方法に至っているといえるだろう。『虚子編新歳時記増訂版』(1951)所載。(今井 聖)


September 0492008

 一の馬二の馬三の秋の風

                           佐々木六戈

近復刻された岩波写真文庫『馬』の冒頭に「馬といえば競馬と思うほどに、都会人の常識は偏ってしまった。しかし、文化程度の低い日本では馬こそは未だに重要な生活の足である」と記述がある。収められた写真を見ればこの本が編集された1951年当時、農耕馬や荷車を引く輓馬(ばんば)が生活の中にいたことがわかる。といってもこれより数年遅く生まれた私には身近に働く馬の記憶はなく、馬と言えばこの記述にあるとおり競走馬なのだ。次々とやってくる馬はたとえば調教師にひかれてパドックを回る馬、レース前にスタート地点へ放たれる返し馬、ゴールに駆け込む馬の姿が思われる。鋼のように引き締まった馬が、一の馬、二の馬とやって来て、次はと待つところへ秋風が吹きわたってゆく。三の馬が吹き抜ける風に化身したようだし、この空白がやって来ない馬の姿をかえって強く印象づける。夏の暑さに弱い馬も涼しくなるにつれ生来の力強さが蘇る。秋の重賞レースも間近、颯爽とかける馬の姿が見たくなった。『佐々木六戈集』(2003)所収。(三宅やよい)


September 0392008

 新涼の水汲み上ぐるはねつるべ

                           岩佐東一郎

い横木の一端に重石をとりつけ、その重みでつるべをはねあげて水を汲みあげるのが撥釣瓶(はねつるべ)。そんなのどかな装置は、時代劇か民俗学の時間のかなたに置き去られてしまったようだ。私も釣瓶井戸は見ているが、撥釣瓶井戸の実物は幼い頃に見た記憶がかすかにあるていど。もはや「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」という千代女の句で、知ったふりをするしかない。秋になって改めて味わう涼しさは、ホッとして身がひきしまる思いがする。「新涼や/水汲み・・・」ではなく、「新涼の水汲み・・・」で「新涼の水」を汲みあげているととらえている。冷やかに澄みきった井戸水であろう。ただの井戸や川から汲むのではなく、撥釣瓶で汲みあげるという設定によって空間が大きくなり、ゆったりとした動きも加わった。のどかにしてすがすがしい動きに加え、かろやかな音さえ聞こえてくるようである。それにつれて人の動きも同時に見えてくる。水を汲みあげるという作業のなかに、人々の生活の基本が組みこまれていた――そんな時代があったことを、この句は映し出している。新涼と水をとり合わせた句は少なくない。西東三鬼には「新涼の咽喉透き通り水下る」の句がある。東一郎は昭和十年代、北園克衛、安藤一郎、岡崎清一郎、他の詩人たちとともに俳句誌「風流陣」の同人だった。ほかに「月の梅うすうすと富士泛(うか)べたり」の句があり、句集に『昼花火』がある。『昼花火』(1940)所収。(八木忠栄)




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