August 312008
擲てば瓦もかなし秋のこゑ
大島蓼太
どういう状況で、瓦を擲(なげう)つなどということがあるのでしょうか。今でこそ瓦を手に取る機会などめったにありませんが、作者は江戸期の俳人ですから、道端に、欠けた瓦がいくらでも落ちていたのでしょう。何かしらのうっぷんでも溜まっていたものと見えます。せめてからだをはげしく動かすことで、少しでも吐き出したい感情があったのです。でも、怒りにまかせて物を投げつけても、心がすっきりするわけではありません。瓦があたって響く音が、むしろ悲しみを増してしまったようです。硬くて軽い瓦は、ぶつかることによって、秋の空に高く悲しい音をたてています。石でも、木切れでもなく、瓦を詠みこんだことで、音の質が限定され、秋の空気とひとりでに結びついてきます。と、ここまで書いてきてふと思ったのですが、ここで投げているのは瓦ではなく、小石で、その小石が建物の屋根の上の瓦にあたって、秋の音を立てているのではないでしょうか。そのほうが句の視線が上のほうへ向かって、音も、よりすっきりと聞こえてきそうです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
August 302008
うすうすとしかもさだかに天の川
清崎敏郎
このところ吟行中、五七、または七五、で終わってしまうことがある。その十二音は、すっと浮かびその時は生き生きしているが、取って付けたような上五、下五をつけることになると、すぐに色褪せて捨てることになってしまう。結局、あれこれ考えて、「しかも」まとまらない。接続詞としての「しかも」の場合、広辞苑によると、(1)なおそのうえに。(2)それでも、けれども。(1)の例文としては、「聡明でしかも美人」。(2)は、「注意され、しかも改めない」とある。今の話は(2)か。掲出句の場合、うすうす、と、さだか、は、それだけとりあげると逆の意味なのだが、感覚的には(1)と思う。星々のきらめきに比べるとぼんやりしている天の川の、確かな存在感。それが十二音でぴたりと表現されている。子供の頃、天の川の仄白い流れを見つめながら、この中でリアルタイムで生きている星がどの位あるのだろうと、よく思った。直径十万光年という途方もない大きさの銀河系の中で、ちっぽけでありながら、今ここに確かに存在している自分。あれこれ考えているうち、めまいがしてくるのだった。このところ不穏な驟雨に見舞われているが、日本列島は細長い。明日が新月の今宵、満天の星空とさだかな天の川を、きっとどこかで誰かが見上げることだろう。『脚注シリーズ 清崎敏郎集』(2007)所収。(今井肖子)
August 292008
秋出水家を榎につなぎけり
西山泊雲
出水で舟を岸辺に繋ぐくらいの発想しか通常は出てこない。それは自分の中に累積したイメージで作ろうとするからだろうな。イメージは自由に拡がると思うと大間違い。想像の方が先入観に縛られて古い情趣まみれの世界しか生み出せない。言葉だけをいじって清新なイメージを紡ごうと四苦八苦したあげく他ジャンルの表現を借用してモダンを気取ることになる。「馬酔木」の出発以来俳句は「見て作る」か「アタマで作る」かのせめぎあいだった。表現はすべてアタマで作るのだなんてことは言わずもがな。要は「もの」のリアルをまず起点に置くかどうかということ。こういう句を見ると両者のせめぎあいははっきり決着がついた感がある。家をつなぐ。榎につなぐ。どちらもアタマでは作れない。こんなリアルは見ることの賜物。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|