やっぱり新幹線で博多まで。缶ビール飲んで寝るのが最適の時間潰し。(哲




2008ソスN8ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2982008

 秋出水家を榎につなぎけり

                           西山泊雲

水で舟を岸辺に繋ぐくらいの発想しか通常は出てこない。それは自分の中に累積したイメージで作ろうとするからだろうな。イメージは自由に拡がると思うと大間違い。想像の方が先入観に縛られて古い情趣まみれの世界しか生み出せない。言葉だけをいじって清新なイメージを紡ごうと四苦八苦したあげく他ジャンルの表現を借用してモダンを気取ることになる。「馬酔木」の出発以来俳句は「見て作る」か「アタマで作る」かのせめぎあいだった。表現はすべてアタマで作るのだなんてことは言わずもがな。要は「もの」のリアルをまず起点に置くかどうかということ。こういう句を見ると両者のせめぎあいははっきり決着がついた感がある。家をつなぐ。榎につなぐ。どちらもアタマでは作れない。こんなリアルは見ることの賜物。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


August 2882008

 行く夏を鶏の匂いの父といる

                           南村健治

っと昔、近所の人に連れられて山深い田舎に遊びに行った。楽しく過ごしたのだけど、夜の暗さと家の内外に濃く漂っている匂いにはどうしても慣れることができなかった。おとなになって園芸用の鶏糞の匂いをかいだとき、むかし寝泊りした農家の記憶がよみがえってきた。あの家に漂っていた匂いは土間のすぐ脇にあった鶏小屋の匂いだったのだろう。朝になるとおじさんが木の柄杓のようなもので、まだぬくい卵をとってきて掌にのせてくれた。闘鶏用の鶏も育てていて、一回負けた鶏は使い物にならないので潰して食べると言っていた。卵を採り、鶏糞を畑に撒き、いらない鶏を潰して食べるのはその家の主人にとってごくありふれたことだったのだろう。「鶏の匂いの父」はそんなふうに鶏とともに生活してきた人の匂い。作者とともに晩夏の時間を過ごしている父は回想の父なのか、現在の父なのか。どちらにしても夏が過ぎれば鶏の匂いのする父は残り、匂わない息子は別の場所へと帰ってゆく。そうだとしても、一緒にいる今はとりたてて話すこともなく二人ぼやっとテレビなんぞを見ているのかもしれない。『大頭』(2002)所収。(三宅やよい)


August 2782008

 ざくろ光りわれにふるさとなかりけり

                           江國 滋

のように詠んだ作者の「ふるさと」とはどこなのか。出生地ではないけれども、「赤坂は私にとってふるさと」と滋は書いている。その地で幼・少年期を過ごしたという。「赤坂という街の人品骨柄は、下下の下に堕ちた」と滋は嘆いた。詠んだ時期は1960年代終わり頃のこと。その後半世紀近く、その街はさらに際限なく上へ横へと変貌を重ねている。ここでは、久しぶりに訪ねた赤坂の寺社の境内かどこかに、唯一昔と変わらぬ様子で赤々と実っているざくろに、辛うじて心を慰められているのだ。昔と変わることない色つやで光っているざくろの実が、いっそう街の人品骨柄の堕落ぶりを際立たせているのだろう。なにも赤坂に限らない。この国の辺鄙だった「ふるさと」は各地で多少の違いはあれ、「下下の下に堕ちた」という言葉を裏切ってはいないと言えよう。いや、ざくろの存在とてあやういものである。ざくろと言えば、私が子どもの頃、隣家との敷地の境に大きなざくろの木が毎年みごとな実をつけていた。その表皮の色つや、割れ目からのぞくおいしそうな種のかたまり――子ども心に欲しくて欲しくてたまらなかった。ついにある夜、意を決してそっと失敬して、さっそく食べてみた。がっかり。子どもにはちっともおいしいものではなかった。スリリングな盗みの記憶だけが今も忘れられない。滋は壮絶な句集『癌め』を残して、1997年に亡くなった。弔辞を読んだ鷹羽狩行には「過去苦く柘榴一粒づつ甘し」の句がある。『絵本・落語風土記』(1970)所収。(八木忠栄)




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