飲んで電車で坐れたのがいけなかった。乗り越しにも程度がある。(哲




2008ソスN8ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2782008

 ざくろ光りわれにふるさとなかりけり

                           江國 滋

のように詠んだ作者の「ふるさと」とはどこなのか。出生地ではないけれども、「赤坂は私にとってふるさと」と滋は書いている。その地で幼・少年期を過ごしたという。「赤坂という街の人品骨柄は、下下の下に堕ちた」と滋は嘆いた。詠んだ時期は1960年代終わり頃のこと。その後半世紀近く、その街はさらに際限なく上へ横へと変貌を重ねている。ここでは、久しぶりに訪ねた赤坂の寺社の境内かどこかに、唯一昔と変わらぬ様子で赤々と実っているざくろに、辛うじて心を慰められているのだ。昔と変わることない色つやで光っているざくろの実が、いっそう街の人品骨柄の堕落ぶりを際立たせているのだろう。なにも赤坂に限らない。この国の辺鄙だった「ふるさと」は各地で多少の違いはあれ、「下下の下に堕ちた」という言葉を裏切ってはいないと言えよう。いや、ざくろの存在とてあやういものである。ざくろと言えば、私が子どもの頃、隣家との敷地の境に大きなざくろの木が毎年みごとな実をつけていた。その表皮の色つや、割れ目からのぞくおいしそうな種のかたまり――子ども心に欲しくて欲しくてたまらなかった。ついにある夜、意を決してそっと失敬して、さっそく食べてみた。がっかり。子どもにはちっともおいしいものではなかった。スリリングな盗みの記憶だけが今も忘れられない。滋は壮絶な句集『癌め』を残して、1997年に亡くなった。弔辞を読んだ鷹羽狩行には「過去苦く柘榴一粒づつ甘し」の句がある。『絵本・落語風土記』(1970)所収。(八木忠栄)


August 2682008

 八月のからだを深く折りにけり

                           武井清子

を二つに折り、頭を深く下げる身振りは、邪馬台国について書かれた『魏志倭人伝』のなかに既に記されているという長い歴史を持つ所作である。武器を持っていないことを証明することから生まれた西洋の握手には、触れ合うことによる親睦が色濃くあらわれるが、首を差し出すというお辞儀には一歩離れた距離があり、そこに相手への敬意や配慮などが込められているのだろう。掲句では「深く」のひとことが、単なる挨拶から切り離され、そのかたちが祈りにも見え、痛みに耐える姿にも見え、切なく心に迫る。引き続く残暑とともに息づく八月が他の月と大きく異なる点は、なんとしても敗戦した日が重なることにあるだろう。さらにはお盆なども引き連れ、生者と死者をたぐり寄せるように集めてくる。掲句はそれらをじゅうぶんに意識し、咀嚼し、尊び、八月が象徴するあらゆるものに繊細に反応する。〈かなかなや草のおほへる忘れ水〉〈こんなふうに咲きたいのだらうか菊よ〉〈兎抱く心にかたちあるごとく〉『風の忘るる』(2008)所収。(土肥あき子)


August 2582008

 秋灯洩れるところ犬過ぎ赤児眠る

                           金子兜太

務からの帰宅時だろう。若い父親である作者はまだ外にいて、我が家の窓から燈火の光が洩れているのに気がついている。その薄暗い光のなかを犬が通りすぎていく。昔は犬は放し飼いが普通だったから、この犬に不気味な影はない。通行人と同じような印象である。この様子は実景だが、室内で「赤児眠る」姿は見えているはずもなく、こちらは想像というよりも「そのようにあるだろう」という確信である。あるいは「そのようにあれよ」という願望だ。一つの灯をはさんでの室外と室内の様子を一句にまとめたアイディアは斬新とも言えようが、しかしよく考えてみると、誰でもが本当は実際にこういうものの見方をしていることに気づかされる。そこを具体的に言ってみせたたところが、作者の非凡である。句が訴えてくる情感は、これまた誰にでも覚えのある「ホーム、スイート・ホーム」的なそれだ。帰宅時に家の灯がついているだけで心やすまる上に、新しい命の赤ん坊もすくすくと育っているのだから、ひとり幸福な感情にとらわれるのは人情というものである。ましてや、季節は秋。人恋しさ、家族へのいとしさの情感を、巧まずして「秋灯」が演出してくれている。そんな秋も間近となってきた。第一句集『少年』(1955)所収。(清水哲男)




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