五輪をめぐる不協和音。あのお、行かせてあげたのは私ら国民なんですが……。(哲




2008ソスN8ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2682008

 八月のからだを深く折りにけり

                           武井清子

を二つに折り、頭を深く下げる身振りは、邪馬台国について書かれた『魏志倭人伝』のなかに既に記されているという長い歴史を持つ所作である。武器を持っていないことを証明することから生まれた西洋の握手には、触れ合うことによる親睦が色濃くあらわれるが、首を差し出すというお辞儀には一歩離れた距離があり、そこに相手への敬意や配慮などが込められているのだろう。掲句では「深く」のひとことが、単なる挨拶から切り離され、そのかたちが祈りにも見え、痛みに耐える姿にも見え、切なく心に迫る。引き続く残暑とともに息づく八月が他の月と大きく異なる点は、なんとしても敗戦した日が重なることにあるだろう。さらにはお盆なども引き連れ、生者と死者をたぐり寄せるように集めてくる。掲句はそれらをじゅうぶんに意識し、咀嚼し、尊び、八月が象徴するあらゆるものに繊細に反応する。〈かなかなや草のおほへる忘れ水〉〈こんなふうに咲きたいのだらうか菊よ〉〈兎抱く心にかたちあるごとく〉『風の忘るる』(2008)所収。(土肥あき子)


August 2582008

 秋灯洩れるところ犬過ぎ赤児眠る

                           金子兜太

務からの帰宅時だろう。若い父親である作者はまだ外にいて、我が家の窓から燈火の光が洩れているのに気がついている。その薄暗い光のなかを犬が通りすぎていく。昔は犬は放し飼いが普通だったから、この犬に不気味な影はない。通行人と同じような印象である。この様子は実景だが、室内で「赤児眠る」姿は見えているはずもなく、こちらは想像というよりも「そのようにあるだろう」という確信である。あるいは「そのようにあれよ」という願望だ。一つの灯をはさんでの室外と室内の様子を一句にまとめたアイディアは斬新とも言えようが、しかしよく考えてみると、誰でもが本当は実際にこういうものの見方をしていることに気づかされる。そこを具体的に言ってみせたたところが、作者の非凡である。句が訴えてくる情感は、これまた誰にでも覚えのある「ホーム、スイート・ホーム」的なそれだ。帰宅時に家の灯がついているだけで心やすまる上に、新しい命の赤ん坊もすくすくと育っているのだから、ひとり幸福な感情にとらわれるのは人情というものである。ましてや、季節は秋。人恋しさ、家族へのいとしさの情感を、巧まずして「秋灯」が演出してくれている。そんな秋も間近となってきた。第一句集『少年』(1955)所収。(清水哲男)


August 2482008

 行き先の空に合わせる夏帽子

                           田坂妙子

語は夏帽子。帽子をかぶるという行為にはいろいろな理由があるのでしょうが、わたしの勤め先には、電話中も会議中も常に野球帽をかぶっている男性社員がいます。見た目を気にしてなのか、別に特別な理由があるのか、知る由もありません。ただ、この句の帽子には明確な理由があります。暑さや日ざしを防ぐためという実用の面から見るならば、帽子はたしかに夏がふさわしいようです。句の意味はわかりやすく、行く場所や時間によって、着てゆく服を選ぶように、行き先によって帽子を変えているのです。面白いのは対象が、人や場所ではなく、その上に広がる「空」であることです。空の色や光の加減によって、どの帽子にしようかと悩んでいます。なんとも美しく、きれいに透き通った悩みです。帽子を選んでいる部屋でさえ、中空に浮かんでいるような気分にさせられます。発想の中に「空」の一語が入り込んできただけで、これほどに読んでいて気持ちよくなるものかと、空の力にあらためて感心してしまいます。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年8月18日付)所載。(松下育男)




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