夕立の来るころになりました。しばしの雨が止むと、虫が鳴きそうな気配に。(哲




2008ソスN8ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2082008

 打水や下駄ぬぎとばし猶も打つ

                           土師清二

昼、都心の舗道を汗を拭き拭き歩いていると、いつも思う――どこまでもつづくコンクリート装置が、必要以上の暑熱を容赦なく通行人や街に照り返している! 異常としか言いようのないこの都市という装置は、人間にとってはたまったものではない。その二日後、私は佃と月島の路地を歩いていた。行く先々に施された打水。暑いけれどホッとして、居住民のごく自然な心遣いが思われる。この街では家々が、人々がお隣同士、水を打ちながら有機的につながっているのだ、と私には思えた。おそらくそういうことなのだろう。そういう街もまだあるにはある。わが家の前の道路に水を打つ、という習慣がまだ生きていることが、妙にうれしく感じられた。「下駄ぬぎとばし」ながら、これでもかこれでもかと水を打っている人は、短パン姿であれ、ステテコ姿であれ、また甚兵衛姿のおっさんであれ、「猶も打つ」という表現から、きわめて暑い日の打水であることが想像できる。ちょっと滑稽にも感じられるその様子に、暑さに精一杯対抗している勢いがあふれている。「砂絵呪縛」などの大衆小説で活躍した清二には句集『水母集』があり、村山古郷は「俳句ずれのしない新鮮な味がある」と評している。ほかに「花火消えて山なみわたる木霊かな」「午睡する足のやりばのさだまらぬ」などの句がある。『水母集』(1962)所収。(八木忠栄)


August 1982008

 本といふ紙の重さの残暑かな

                           大川ゆかり

さは立秋を迎えてから残暑と名を変えて、あらためてのしかかるように襲ってくる。俳句を始めてから知った「炎帝」という名は、火の神、夏の神、または太陽そのものを指すという。立秋のあとの長い長い残暑を思うと、炎帝の姿にはふさふさと重苦しい長い尻尾がついていると、勝手に確信ある想像していたのだが、ポケモンに登場する「エンテイ」は「獅子のような風格。背中には噴煙を思わせるたてがみを持つ」とされ、残念ながら尻尾には言及されていない。掲句は残暑という底なしの不快さを、本来「軽さ」を思わせる「紙」で表現した。インターネットから多くの情報を得るようになってから、紙の重さを忘れることもたびたびある現代だが、「広辞苑」といって、あの本の厚みを想像できることの健やかさを思う。ずっしりと思わぬ重さに、まだまだ続く残暑を重ね、本の重さという手応えをあらためて身体に刻印している。〈泳ぐとはゆつくりと海纏ふこと〉〈月朧わたくしといふかたちかな〉〈あきらめて冬木となりてゐたりけり〉『炎帝』(2007)所収。(土肥あき子)


August 1882008

 喪服着てガム噛みゐたり秋の昼

                           星川木葛子

儀に出かけるために、喪服に着替えた。しかし、家を出るにはまだ少し時間がある。煙草を喫う人ならばここで一服となるところだろうが、作者はガムを噛んで時間をつぶすことにした。煙草でもガムでも、こういうときのそれは、べつに味を求めて口にするわけではない。ただ漫然と時間をつぶす気持ちになれなくて、何かしていなければ気がすまない状態にある。そしてたまたま手近にあったガムを噛んだのだが、噛めば噛んだで、口中の単純な反復行為は、噛んでいないときよりも、故人のあれこれを思い出す引き金のようになる。まあ、一種の集中力が口中から精神にのりうつってくるというわけだ。いっそうの喪失感が湧き上がってくる。その意味で、喪服とガムはミスマッチのようでいて、そうではないのである。煙草を喫うよりも、噛みしめる行為が伴うので、余計に心には響くものがある。時はしかも秋の昼だ。外光はあくまでも明るく、空気は澄んでいる。人が死んだなんて、嘘のようである。葬儀に向かう心情を、あくまでも平凡で具体的な行為に託しながら捉えてみせた佳句と言えよう。おそらくは誰だって、比喩的に言えば、ガムを噛んでからおもむろに葬式に臨むのである。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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