敗戦の翌日からしばらくの間の記憶のない人が多い。国民総虚脱期だった。(哲




2008ソスN8ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1682008

 ぼろぼろな花野に雨の降りつづけ 

                           草間時彦

野というと、子供の頃夏休みの何日かを過ごした山中湖を思い出す。早朝、赤富士を見ようと眠い目をこすりながら窓を開けると、高原の朝の匂いが目の前に広がる花野から飛び込んで来た。それは草と土と朝露の匂いで、今でも夕立の後などに、それに近い匂いがすると懐かしい心持ちになる。花野は、自然に草花が群生したものなので、夏の間は草いきれに満ちているだろう。そこに少しずつ、秋の七草を始め、吾亦紅や野菊などが咲き、草色の中に、白、黄色、赤、紫と色が散らばって花野となってゆく。この句の花野は、那須野の広々とした花野であるという。そこに、ただただ雨が降っている。雨は、草の匂いとこまごまとした花の色を濃くしながら降り続き、止む気配もない。降りつづけ、の已然止めが、そんな高原の蕭々とした様を思わせ、ぼろぼろな、という措辞からするともう終わりかけている花野かもしれないが、その語感とは逆に逞しい千草をも感じさせる。同じ花野で〈花野より虻来る朝の目玉焼〉とあり、いずれもイメージに囚われない作者自身の花野である。『淡酒』(1971)所収。(今井肖子)


August 1582008

 花火見る暗き二階を見て通る

                           池内たけし

火見るでは切れない。花火を見ている顔が並ぶ暗い二階を見て通るという内容。顔は見えないかもしれない。顔が見えなくても花火を見ているであろうことは声でわかるのかもしれない。もし「見る」で切れるとするならば、作者は花火と暗い二階を同時に(或いは連続して)見ていることになる。同時に見るのは無理だし、連続して見てもそこに詩情は感じられない。これはやはり花火を見ないで二階を見ているのだ。花火を見ているのは二階の人。花火を見ずとも音は聞こえる。花火の炸裂音の中で作者は暗い二階を見上げる。花火に浮き立つ世の人々を冷笑的に見ているのか。花火賛歌ではない内面的な角度がある。何か人目をひくものの前でそこに見入る人を見ている人が必ずいる。見る側に立つのはいいが、見られる側に立つのはなんとなく気持ちが悪い。見ている側に優越的な気持ちを持たれているようでもあるし。もし逆の立場で、二階で花火を見ている自分が下から見られていると感じたら、いっそう楽しそうに花火見物の自分をみせつける奴と、どこ見てんだよと睨み返す奴がいるんだろうな。僕はやっぱり後者だな。楽しんでる顔を冷静に見られるのは嫌だな。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


August 1482008

 戦死せり三十二枚の歯をそろへ

                           藤木清子

は学徒出陣で海軍に配属され、鹿児島県の志布志湾に秘密裡に作られた航空基地で敗戦の日を迎えた。同年齢の義父は、広島の爆心地で被爆した後郷里に戻り静養していた。九死に一生を得た二人とも戦争についてほとんど語らなかったが、戦死した同世代の青年達をいつも心の片隅において生涯を過ごしたように思う。祖国の土を踏むことなく異国の地で果てた若者たちはどれほど無念だったろう。私が小さい頃、街には戦争の傷痕がいたるところに残っていた。向かいの病院は迷彩色を施したままであったし、空襲の瓦礫が山積みになった野原もあった。戦後63年を経過し、戦争の記憶は薄れつつある。三十二枚の健康な歯をそろえながら飢えにさいなまれ、南の島や大陸で戦死した青年達の口惜しさは同時代を生きたものにしかわからないかもしれない。そうした人々への愛惜の気持ちがこの句を清子に書かせたのだろう。事実だけを述べたように思える言葉の並びではあるが、「そろへ」と中止法で打ち切られたあとに、戦死したものたちの無言の声を響かせているように思う。『現代俳句』上(2001)所載。(三宅やよい)




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