ソルジェニツィン氏死去。闘いつづけた作家の生涯に献杯。(哲




2008ソスN8ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0582008

 白服の胸を開いて干されけり

                           対馬康子

い空白い雲、一列に並んだ洗濯物。この幸せを象徴するような映像が、掲句ではまるで胸を切り裂かれたような衝撃を与えるのは、単に文字が作り出す印象ではなく、そこに真夏の尋常ではない光線が存在するからだろう。白いシャツの上に自ら作りだす黒々とした影さえも、灼熱の太陽のもとでは驚くほど意外なものに映る。この強烈なエネルギーのなかで、なにもかも降参したように、あるものは胸を開き、あるものは逆さ吊りにされて、からからと乾いていくのである。しかし、お日さまをよく吸って、すっかり乾いた洗濯物の匂いは格別なもの。最近発売されている柔軟剤に「お日さまの香り」というのを見つけた。早速試してみたらどことなくメロンに近いものを感じるが、お日さまといえばたしかにお日さま。それにしても太陽の香りまで合成されるようになっている現代に、ただただ目を丸くしている。〈異国の血少し入っている菫〉〈初雪は生まれなかった子のにおい〉〈死と生と月のろうそくもてつなぐ〉『天之』(2007)所収。(土肥あき子)


August 0482008

 まっすぐにきて炎天の鯨幕

                           大島得志

夏の葬儀は辛い。もう四十年も昔のことになるが、仕事仲間のカメラマンが交通事故で死んだ。ついその前日に、仕事の段取りを打ち合わせたばかりだった。そのときの彼はすこぶる上機嫌で、それもそのはず、長い間欲しかった車を中古ではあったが、ようやく手に入れたと言い、それに乗って撮影に行ってくからとはりきっていた。カメラマンは荷物が多いので、たしかに車はないよりもあったほうがよいだろう。そして、別れてから二十四時間経ったか経たないかのうちに訃報が入り、思わず電話をくれた相手に「ウソだろ」と問い返していた。しかし、それは現実だった。センターオーバーで他の車と衝突し、即死状態だったという。しかも運転席の彼の横に、彼はお母さんを乗せていた。親孝行も兼ねてのドライブだったのだ。幸い、母堂は一命をとりとめたということだったが、その後のことは知らない。三十歳にも満たない短い生涯だった。葬儀はめちゃくちゃに暑い日で、小さな都営住宅の自宅で行われたこともあり、私は黒い服のままほとんど炎天の道端に立ち尽くして出棺まで見送った。汗という汗はすべて出尽くしてしまい、襲ってくる眩暈に耐えての参列だった。恋人らしき若い女性が泣いていた様子以外、何も覚えていないのは、そんな猛暑のせいである。そういうこともあったので、この句は実感としてよくわかる。遠慮も逡巡もなく、葬儀の場に「まっすぐにきて鯨幕」に向かうとは、あまりの暑さに「鯨幕」の陰に救いを求めたいという心理が優先しての措辞だ。暑い日でなければ、おもむろに鯨幕の向こうに入っていくのだが、そんなに悠長に構えてはいられなかった作者の心情がよく出ている。『現代俳句歳時記・夏』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)


August 0382008

 平均台降りて夏果てとも違ふ

                           中原道夫

ういえば先日朝日新聞に、清水哲男さんが日本の詩歌はスポーツをきちんと扱っていないと書いていました。なるほどと思っているところに、この句と出会いました。平均台というと、なぜか女子のスポーツです。中学生のときに、体育館の中で、跳び箱の順番を待ちながら、女子が平均台の上で苦労している姿をぼんやりと見ていたものです。夏であれば、体育館の開け放たれた扉の外には、空高く入道雲が盛り上がっていたことでしょう。この句が詠んでいるのは、平均台の上での動きそのものではなく、演技が終わって後のほっとした瞬間です。中空から足を地に下ろす、その時の心情が、閉じられようとする季節に重ねて詠われています。季語は「夏果て」、夏の終わるのを惜しむ気持ちです。ただ、句は夏果てとも違ふと、締めくくっています。この否定は、競技に燃焼しつくせなかったことを表しているのでしょうか。あるいは、季節に取り残した大切なものが別にあるということでしょうか。身体だけではなく、句の結末も、あやうげに中空に浮かんでいるようです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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