職場で椅子から転げ落ちた。食欲もだんだん落ちてきた。落下防止策は?(哲




2008ソスN7ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 3072008

 酔ひふしのところはここか蓮の花

                           良 寛

の花で夏。「ところ」を「宿(やどり)」とする記録もある。良寛は酒が大好きだったから、酒を詠んだ歌が多い。俳句にも「ほろ酔の足もと軽し春の風」「山は花酒や酒やの杉はやし」などと詠んだ。酒に酔って寝てしまった場所というのは、ここだったか・・・・。傍らには蓮の花がみごとに咲き香っている。まるで浄土にいるような心地。「蓮の花」によって、この場合の「酔ひふし」がどこかしら救われて、心地良いものになっている。良寛は庵に親しい人を招いては酒を酌み、知人宅へ出かけては酒をよばれて、遠慮なくご機嫌になった。そんなときぶしつけによく揮毫を所望されて困惑した。断固断わったこともたびたびあったという。子どもにせがまれると快く応じたという。基本的に相手が誰であっても、酒はワリカンで飲むのを好んだ、というエピソードが伝えられている。良寛の父・以南は俳人だったが、その句に「酔臥(よひふし)の宿(やどり)はここぞ水芙蓉」があり、掲出句はどうやら父の句を踏まえていたように思われる。蓮の花の色あいの美しさ清々しさには格別な気品があり、まさに極楽浄土の象徴であると言ってもいい。上野不忍池に咲く蓮は葉も花もじつに大きくて、人の足を止めずにはおかない。きれいな月が出ていれば、用事を忘れてしゃがんでいつまでも見あげていることのあった良寛、「ここ」なる蓮の花に思わず足を止めて見入っていたのではあるまいか。今年は良寛生誕250年。『良寛全集』(1989)所収。(八木忠栄)


July 2972008

 わが死後は空蝉守になりたしよ

                           大木あまり

いぶん前になるがパソコン操作の家庭教師をしていたことがある。ある女性詩人の依頼で、その一人暮らしの部屋に入ると、玄関に駄菓子屋さんで見かけるような大きなガラス壜が置かれ、キャラメル色の物体が七分目ほど詰まっていた。それが全部空蝉(うつせみ)だと気づいたとき、あまりの驚きに棒立ちになってしまったのだが、彼女は涼しい顔で「かわいいでしょ。見つけたらちょうだいね」と言ってのけた。「抜け殻はこの世に残るものだから好き」なのだとも。その後、亡くなられたことを人づてに聞いたが、あの空蝉はどうなったのだろう。身寄りの少なかったはずの彼女の持ち物のなかでも、ことにあれだけは私がもらってあげなければならなかったのではないか、と今も強く悔やまれる。掲句が所載されているのは気鋭の女性俳人四人の新しい同人誌である。7月号でも8月号でも春先やさらには冬の句などの掲載も無頓着に行われている雑誌も多いなか、春夏号とあって、きちんと春夏の季節の作品が掲載されていることも読者には嬉しきことのひとつ。石田郷子〈蜘蛛の囲のかかればすぐに風の吹く〉、藺草慶子〈水遊びやら泥遊びやらわからなく〉、山西雅子〈夕刊に悲しき話蚊遣香〉。「星の木」(2008年春・夏号)所載。(土肥あき子)


July 2872008

 冷奴大和島根は箸の国

                           渡辺恭子

べ物の句は、とにかく美味しそうでなければならない。美味しいという感覚は、むろん食品そのものの味にまず関わるが、それだけではなくて、それを食するときの「お膳立て」いっさいに関わってくる。冷奴などは料理とも言えない素朴な食べ物であるが、なるほどこれは箸で食べるから美味いのであって、スプーンでだったら美味さも半減してしまうだろう。句の「大和島根」は島根県のことではなくて、大和(日本)の島々、つまり日本の国のことだ。戦前戦中に流行した大八洲(おおやしま)などとという呼称に似ている。したがっていささか旧弊な神国日本の影を引く言葉ではあるけれど、この句はたかが冷奴に神国の伝統をあらためて持ち出し、「神の国」ならぬ「箸の国」とずらせてみせたことで、現代の句として面白い味を出している。猛暑のなかの食卓につつましくのせられた一鉢の冷奴。この句を思い出して箸をつければ、他のおかずもいろいろに美味さが違ってくるかもしれない。今夜の一品はだんぜん冷奴に決めました。たまには揚句のように、冷奴も気合いを入れて食べてみなければ。月刊「俳句」(2008年8月号)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます