阪神はもう勝ったり負けたりしてればよい。この余裕がまた強さのもとに。(哲




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July 2672008

 みちのくの蛍見し夜の深眠り

                           大木さつき

月も終わりに近づき、蛍の季節には少し遅いかもしれないけれど。子供の頃に住んでいた官舎の前の小さな川は、今思えばそれほど清流であったとも思えないのだが、毎夏当然のように蛍が飛んでいた。仕事帰りのほろ酔いの父が、橋の上で捕まえてきた蛍の、ほの白い光が指の隙間から洩れるのを、じっと見ていた記憶がある。ゆっくり点滅していたのであれは源氏蛍だったのか、この作者がみちのくの旅で出会った蛍は、星がまたたくように光る平家蛍かもしれない。昼間は青田風の渡る水田に、頃合いを見計らって蛍を見に。蛍の闇につつまれて小一時間も過ごして宿に戻り、どっと疲れて眠ってしまう。蛍そのものを詠んでいるわけではないけれど、深眠り、という言葉の奥に、果てしなく明滅する蛍が見えて来て、読むものそれぞれの遠い夏を、夢のように思い出させる。〈啄木のふるさと過ぎぬ花煙草〉という句もあり、このみちのくは岩手なのかとも。『一握の砂』に〈蛍狩り川にゆかむといふ我を山路にさそふ人にてありき〉という歌があるといい、これもまた、蛍にまつわる淡い思い出。『遙かな日々』(2007)所収。(今井肖子)


July 2572008

 尾をふりて首のせあへり冷し豚 

                           三条羽村

し豚。一瞬目を疑った。中華料理の話ではない。牛馬冷すの季題の本意は、農耕に用いた牛馬の泥や汗を落し疲労を回復させる目的で海や川に浸けてやること。田舎では以前はよく見られた。だから農耕に具する家畜以外を「冷す」風景は見られてもそれを季題として用いる発想はいわゆる伝統俳句にはなかった、と思われた。ところがどっこい。この句、虚子編の歳時記の「馬冷す」の項目に例句として載っている。「ホトトギス」というところは、「写生」を標榜しながら「もの」のリアルよりも季題の本意を第一義にしていると固く信じていた僕はたまげてしまった。「もの」のリアル。そのときその瞬間の「私」の五感で掴んだものを最優先するように教わってきた僕から見てもこんなリアルな作品はめったにない。季題の本意をかなぐり捨てても、得られるもっと大きなものがあるというのはこういう句について言えること。広い豚舎の中か、放牧の豚の群れにホースで水をかけてやる。放水の下で群れるこれらの豚の愛らしさはどうだ。現実をそのまま写すということの簡単さと困難さ、そしてその方法に適合する俳句形式の間尺ということをつくづく考えさせられた。作者と編者に脱帽である。虚子編『新歳時記・増訂版』(1951・三省堂)所載。(今井 聖)


July 2472008

 ペコちゃんが友達だったころの夏

                           鈴木みのり

月も下旬になると街角に子供の姿が増え、長い夏休みを退屈に過ごしていた小学校の頃を思い出す。避暑や旅行へ連れて行ってもらえるわけもなく、読み飽きた本を何度も読み返すか、市民プールへ出かける以外時間のつぶしようのない毎日だった。テレビはあったが、寝っころがって好きな番組を見る贅沢が許されるはずもなく、一週間に一度見る「ポパイ」や「鉄腕アトム」を楽しみにしていた時代だ。特別な番組のコマーシャルはそれぞれ印象が深い。「鉄腕アトム」はマーブルチョコとシール。「ポパイ」はペコちゃん人形とパフェを食べる女の子が憧れの的だった。首振りペコちゃんの店で買ってきたケーキは五人兄妹が見つめる前で厳密に切り分けられ上から順に配られたものだった。その当時、お菓子屋かおもちゃ屋を店ごと買い占めるのが夢だった私もおとなになると、すっかりそうしたものに興味がなくなってしまった。ペコちゃんが友達だったころの夏。それは私にとっても懐かしい時だけど、二度と帰れない場所でもある。『ブラックホール』(2008)所収。(三宅やよい)




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