「梅雨明け十日」とはよく言ったもので暑さがつづきますね。ご用心。(哲




2008ソスN7ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2272008

 宿題を持ちて花火の泊り客

                           半田順子

休みが始まり、平日の昼間の駅に子どもたちの姿がどっと見られるようになった。夏休みのイベントのなかでも、花火と外泊は絵日記に外すことのできない恰好の題材だ。わが家も掲句同様、わたしと弟とそれぞれの宿題を背負い、花火大会の前後を狙って祖父の家に滞在するのが夏休みの恒例行事だった。打上げ花火の夢のような絵柄が、どーんとお腹に響く迫力ある音とともに生み出されていくのを二階の窓から眺めていたことを思い出す。打上げ音が花火よりわずかに遅れて聞こえてくることの不思議に、光りと音の関係を何度聞かされても腑に落ちず、連発になると今のどーんはどの花火のどーんなのかと、見事な花火を前にだんだんと気もそぞろになっていくのは今も変わらない。そしていよいよ白い画用紙を前に、興奮さめやらぬままでかでかと原色の花火を描く。しかし花火を先に描いてしまうと、夜空の黒を塗り込むのがとても厄介になることも、毎年繰り返していた失敗だ。以前の読者アンケートに、このページを読んでいる小学生もわずかに存在するという結果が出ていたが、花火を描くときには「夜空から塗る」、これを愚かな先輩からのアドバイスとして覚えていてほしい。〈夏来ると浜の水栓掘り起す〉〈蝉穴の昏き歳月覗きをり〉『再見』(2008)所収。(土肥あき子)


July 2172008

 暑うしてありありものの見ゆる日ぞ

                           今井 勲

者は私と同年。昨夏、肝臓ガンで亡くなられたという。句は亡くなる前年の作で、何度も入退院を繰り返されていたが、この頃は比較的お元気だったようだ。が、やはりこの冴え方からすると、病者の句と言うべきか。暑くてたまらない日だと、たいていの人は、むろん私も思考が止まらないまでも、どこかで停止状態に近くなる。要するに、ぼおっとなってしまう。でも作者は逆に、頭が冴えきってきたと言うのである。「見ゆる日ぞ」とあるから、暑い日にはいつも明晰になるというわけではなく、どういうわけかこの日に限ってそうなのだった。ああ、そうか。そういうことだったのか。と、恐ろしいほどにいろいろなことが一挙にわかってきた。死の直前の句に「存命の髪膚つめたき真夏空」があり、これまた真夏のなかの冷徹なまでの物言いが凄い。「髪膚(はっぷ)」は髪の毛と皮膚のこと。人は自分に正直になればなるほど、頭でものごとを理解するのではなく、まずは身体やその条件を通じてそれを果たすのではあるまいか。病者の句と言ったのはその意味においてだが、この透徹した眼力を獲得したときに、人は死に行く定めであるのだとすれば、人生というものはあまりに哀しすぎる。しかし、たぶんこれがリアルな筋道なのだろうと、私にはわかるような気がしてきた。こういうことは、誰にでも起きる。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)


July 2072008

 胸に手を入れて農婦は汗ぬぐふ

                           佐藤靖美

つて読んだ本の中に、こんなことが書いてありました。「「ゾウが汗だく」とか「ライオンが額に汗して……」なんて光景は、ついぞお目にかかったことがない。」そういえばそんなものかと思い、続きを読むと、なぜ人間以外の動物が、汗だくにならないかという理由が書かれていました。いわく、「決定的な答えはひとつ。動物たちは、汗をかいてまで体温を下げなくてはならないようなことを、しないだけだ。」(加藤由子著『象の鼻はなぜ長い』より)。さて、本日の句を読むまでもなく、人間は汗をかいてまで体温を下げなくてはならないようなことを、しているわけです。無理をしなければ生きていけないのが人間、ということなのでしょうか。言うまでもなく、句中の農婦が汗をかいたのには、堂々たる理由があります。農作業中に「胸に手を入れて」汗を拭くという行為は、その動きの切実さゆえに、読者を感動させるものを持っています。まっとうな行為としての重みと尊厳を、しっかりと備えているからなのでしょう。みっともないとか、見た目が悪いとかの判断よりもずっと奥深くにある、人間の根源的な営みを、句は正面から詠もうとしています。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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